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40代半ばの心境 余生の一歩手前

 45歳になった。日本人男性の平均寿命が80歳ということなので、この基準からすると半ば過ぎている。これからは医療技術の発達で人生100歳時代と盛んに言われていて、それからすると半ば一歩手前。間をとってちょうど折り返し地点なのかもしれない。今の心境を一言で表すと「余生の一歩手前」だろうか。あと数年したらいつ死んでも人生にさほど未練はないと思っている。 一人息子は小学校低学年。成人の半分に達していない。人格の土台はだいぶできあがってきていると感じているが、未だに両親にべったりで自立はまだ先。休日はまだまだ親子一緒に遊んでいる。もし今私がいなくなったとしたら経済面はとりあえず置いておいても家庭教育面で正直不安はある。だけど小学校を卒業し中学生になれば親子ででかけたり遊んだりすることもだいぶなくなって友人関係が中心になっているはず。寂しいことであるけどそうでないと困る。その頃になれば私がいなくなったと仮定しても大丈夫かなとは思う。この意味で息子が小学校卒業までが余生の「一歩手前」の部分になる。実際には父親としての教育的、心理的役割の他にも家庭の財布という経済的役割もある。あくまで心情的な仮定の話として。 生き物は配偶者の獲得、子育て、つまり自分の遺伝子を残すことに多大なエネルギーを使う。子を残して力尽きたり自らの亡骸を子の餌にする種もある。この観点からすると、子育ても先が見えた時点でそれから先は明らかに「余生」だと言える。余生というのは必須のことは終えておまけという意味。ちょうど今の心境と重なる。 結婚前後からこれまでが人生で一番読書の密度が高い時期だった。恥ずかしながら学生のときよりもずっと。結婚前は理系の本が中心だったけど子育てを機に教育関係、そして哲学、社会学、心理学、そしてマインドフルネスと広がっていった。今は人生において大事なもの、不易な部分は分かってきたと思っている。読書の学びに終わりはないしむしろ終わりになった気になってはいけない。変化の部分は人によって場合によって違う。その程度も違う。余生でもその調整は続く。 会社生活の方はこの年齢になれば先がほぼ見えている。今後も技術者として目の前のしごとに懸命に取り組むことは変わらない。幸いなことに自分の持っている力を活かすことができている実感はある。65歳まで再雇用制度はあるけど、気分も変えたいし定年(もしくはその前)

自分の構成要素としての読書履歴

例えば就職のために履歴書を書く。そのときに過去に所属していた学校、団体を埋めていって特技も書かなくてはいけない。もし資格があれば行数が稼げる。転職の場合は関わったプロジェクト単位で書いていく場合もある。 人によってスラスラと書けて誇らしげになる場合もあるし、逆に行数が少なくひねり出すのに苦労するかもあるかもしれない。いずれにしても埋めた履歴書は一面的とは言えその人のことが分かるものになる。書いた本人にとっては改めて「自分」というもの、つまりアイデンティティの再発見に繋がる。履歴書を書くというのは滅多にすることではないし、私も転職の際に書いたときはなかなか新鮮な気持ちになった。 履歴書で分かることは表向きな面が強いけど、内面的な構成要素を知るためのとても有効な方法の一つが読書履歴を眺めることだと思う。例えば個人的な本棚を見れば履歴書とは違う意味でその人の関心事、言い換えればその人の「構成要素」が分かる。これは他人を知る場合と自分のことを改めて知る場合の両方に当てはまる。ここでは自分自身を知ることについて書く。 自分の本履歴を知る最初の手段は部屋の本棚だ。だけど棚には時間軸の情報は含まれていないし、各本の重みについてもわからない。図書館を頻繁に利用する場合は、家の本棚の内容は履歴のごく一部でしかなくなる。つまり情報がだいぶ欠落する。 家の本棚の場合は、整理の際が自分を見直すよいきっかけになる。例えば本棚のスペースを限定するか100冊など上限を決めておき、定期的に断捨離すればその度に自分の現在の関心事、価値観と向き合うことになる。 他には長期間過ごすネットのない島に持っていきたい本を選ぶという話もある。リュックに入る程度なのでせいぜい10冊程度になるだろうか。仮想的な取り組みだけどこれをすると大事な本がさらに絞られる。 前に「読書メーター」というオンラインの読書日記でありSNSのことを書いた。これを続けていれば実際の本棚にはない登録日として時間情報も残るし、レビューも書いておけば各本の重みもわかる。読んだ本をその度に登録していくことは必要だけど、慣れてくれば感想を書くことは楽しくなるので手間とは思わなくなる。 読書メーターの場合は、年末に一年に読んだ本の「おすすめランキング」というのを作成し他人に公開する機能がある。この作業を毎年するのが楽しみになっている。これは「本棚」

親子で取り組まなくてはいけない読書

 私自身は未成年の頃の読書を振り返ってみると、読むと言えばまずは漫画、たまに推理小説であって、それ以外は中高時代は学習参考書で大学時代も理系の専門書だった。読む範囲がとても狭かった。量にしてもそこそこ読むけど読書好きというレベルではなかったことは間違いない。 社会人になって、色々と壁に当たったり社会のことに疑問を持ち始めると、ようやく専門以外の本を読み始めるようになる。それから自分のこれまでの視野の狭さを知り、もっと早くから読んでおけばと思うことになる。 我が家を含めてほとんどの家庭がそうなのだろうけど、子供は年齢が上がるに連れて親の言うことを聞かなくなってくる。特に親の人生論などを語ってもまず聞き流してしまうだろう。子供にしっかりとした軸のある考え方を身につけてもらいたいと思うなら、それを親が語るのではなく自らその考え方に辿り着いてもらうしかない。 そうだとすると、親にできることは子供に読書習慣を身につけてもらうことだ。できればノンフィクションの内容の。読書習慣が軸のある人間になるための必要条件だ。逆に言えば親にはそれしかできない。ここでは軸のあるということを試行錯誤のうえで辿り着いたぶれない考えを持っているという意味合いで使っている。しかし、子供が何か軸のある考えを身につけたとしてもそれは、親が思っているのと違うものかもしれないが。 読書には人間としての軸をつくることが長期的効果だとすると、短期的には語彙力や国語力、ひいては学校の成績が上がるという狭い意味での教育効果ももちろんある。どちらかと言えばそちらの方が注目されやすいかもしれない。だが、なぜ学校でいう国語力が必要かと言うと、多くの本を読めるようになり自分の軸を作り、(否定ではなく)批判的に考えられるようになるためのはずだと思う。 子供が読書習慣を身につけるために親ができることは、家庭全体を読書することが当たり前にすることしかない。そのような家庭の空気をつくること、これ以外にない。幼児期からの絵本の読み聞かせから始まり、定期的に一緒に図書館通いをして一緒に本を選ぶ。そうして家庭内で親が本を読む姿を子供が当たり前と思うようになる。 他に必要なことはテレビやスマホなどの脳にとって敷居の低く流されれやすいメデイアをなるべく制限することだと思う。両親が本を読まずにテレビやスマホばかり見ていたら子供が本を読もうとする

女の子がよかった、らしい

 「女の子がよかった!」「女の子がよかった…」、これがここ数年の妻の口癖の一つだ。我が家は息子が一人の3人家族なのだ。100%本気でいうわけではなさそうだが、ある程度は切実にこの言葉を発しているように見える。 理由の一つに、妻にとって息子(多分、男の子全般)の生態が理解できないということがある。妻自身の子供の頃の行動と違いすぎるということだ。現在小学校低学年だが、同じことを何度言っても聞かない、散らかす、家の中でも動き回る、高いところに上る、服をすぐ汚す。よく言えば「わんぱく」なのだが。 また、おもちゃ、本、テレビの趣味も理解できない。特にウルトラマンが怪獣と戦うものとか。さらには行動様式がだんだん父親の私に似てきているのが特に気に入らないらしい。私の同じ年齢の頃を思い返してみると似たようなものだったので男の子はこんなのものと思えるが、妻にとって男の子は宇宙人に見えるのだろう。 息子がこのような状態の時に、他所の大人しそうな女の子を見ると最初の言葉が特に頭を過るようだ。女の子なら話が通じて分かりあえる、服も男の子は種類が本当に少ないが女の子は可愛いのがいっぱい、一緒にショッピングに行ってお茶できる、さらには夫である私の悪口も一緒に言って結束できるとも言っている。だけど女の子だと外で一人で歩かせるのが心配で仕方がないだろうから、その点だけは男の子でよかったとは言っている。 外で親子を眺めるていると、幼児期は男女の違いはあまりなさそうだけど、子供が大きくなるにつれて変わってくる。小学校高学年、中学生以降だと女の子は母親と一緒で、父親と2人というのは街中でほぼ見ない。妻の言っている女の子の方が仲良くできるのもその通りだろうけど、一方ではそれは理想論でそう絵に描いたようにうまくはいかないだろうとも思う。あまり母親の理想を押し付けすぎると反発するかもしれない。 こう子供の性別で愚痴を言えることはありがたいことだと思う。子供が無事に今ここにいるだけで十分なことで、それに比べたら性別は些細なことなはず。おそらく妻もそう思っているはず? 関連記事 夫婦関係の標準とは

Amazonレビューによる書評

 本を選ぶ場合に、読書メーターでのフォローしている方々のレビュー投稿やAmazonレビューも自然と参考にしている。 読書メーターとAmazonレビューの総数はある程度比例している。なので、読書メーターの投稿は少ない(数件)のにAmazonレビューの方が圧倒的に多い(数十件)場合、そのAmazonレビューはさくらによるものの可能性が高い。実際に読んでみるとさくらっぽいレビューはすぐ分かるものだ。大抵の場合はそれほど長くない文章で不自然に褒めちぎっている内容が続いている。 読書メーターの投稿は最大255字なのであまり多くは語れない。読んでおもしろいレビューはある程度長いAmazonレビューの方が圧倒的に出会える。場合によってはその本の内容よりも参考になるものもある。 Amazonレビューを読む目的は2つある。1つ目は自分の本選びの参考にする場合。レビューは電子での「サンプル」または「試し読み」も参考になるのだけど、電子になっていないものもまだ多いので、そのときはレビューに頼ることになる。 本選びの参考のためにレビューを見る場合、だいたいはリストの上から眺めていって星5か4の肯定的な評価のものを参考にすることが多い。肯定的なものは基本的に著者の主張に賛成なので、その本の概要、内容を分かりやすく伝えてくれるものが多い。 レビューを読むもう一つの目的は、そのレビュー自体を楽しむことになる。その面白さは本に対する「批判」からくる。「否定」ではなく。これは自分が実際にその本を読んで内容がわかった後にする。レビューの投稿者が自分と違った箇所に目をつけ、違った視点で眺めていることがわかる。同じ本を読んでいるのに捉え方がこうも違うのかと思える、その多様性がまず面白い。また、その本の内容を超えた知識を披露して反対意見を述べているものも参考になる。それが妥当なものかどうかは自分自身で吟味しなければならない。 レビュー自体を読む目的のときは星の少ないレビュー、すなわち星1〜3のものから先に読んでいくことが多い。批判的なレビューはその本の主張に部分的に反対しているものが多いわけで、その部分にこそ投稿者の個性が入りやすい。 だけど、星1のものは批判ではなく根拠の書いていない、ただ気に入らないだけのような感情的なものも目立つ。ここでも批判的レビューは見かけるけど割合からいえば根拠のない感情的なレビ

ブログ画像の違和感

 色々と見ているブログでまず目立つのが過剰な広告。広告は最近は文章の途中で大きく割り込むパターンが増えてきて非常に読みづらい。スクロール途中で誤ってクリックしてくれるのを願って配置しているとしか思えない。そういうブログは早々と退散したいのだけど何しろ今やや検索の上位でヒットする多くのブログがそのレイアウト。そうなると検索ネットサーフィンする時間が減っていく。自分にとって良いことなのか悪いことなのか。 広告の方は効率的にクリックしてもらうことが理由なので一応は理解できる。しかしもう一つ目立つのが多くのイメージ画像。画像を配置したほうが記事へのクリック率が高まるというSEO的な有効性が確かに言われている。文章が主体の記事でも補足的な画像があったほうが分かりやすい場合があるのは間違いない。それでも画像なんて特に不要と思える記事にまで無理やり画像を入れているものがほとんど。さらに大抵はサイズが大きく一つにページに何枚も挿入されている。その分スクロールする手間も増える。 特に違和感があるのが外人を使用している画像の数々。著作権フリーの画像が日本人のものは少ないことが理由だろうけど、そこまでして画像を入れなくてはいけないのだろうか。このような不必要な画像を多用することは、逆に記事の質を損ねているとしか思えない。本来の記事全体の質を上げる目的のための手段の一つとしての画像使用のはずが、とにかく画像を入れなくていけないとそれ自体が目的化している。 Webページ評価のアルゴリズムで、その記事に合っている画像かどうかを区別することはAIが進んできた今でも難しいと思う。でも、そのうちできることを期待している。

教育とは自発と他律の折り合いをつけて自律に誘導すること

教育は意識的なものとそうでない無意識的なものにまず分けることができる。無意識的な教育とは人々、例えば親子、友達などが一緒に過ごすなかで、お互いに影響を与えあっていることを言う。人間は他人の存在を認知するだけで何かしらの影響を受ける。一方的に影響を与えるというのは基本的にない。影響を受けるということは多かれ少なかれその人に変化が見られるということだからだ。他人の影響によって起こる変化が広い意味の教育になる。狭い意味のものは学校での先生から生徒への授業や指導、そして家庭での育児などで、普通に教育と言うとこの狭い意味のものを指す。 意識的な教育においては、親・先生は何かしらの模範を持っていて、子供・生徒をその模範に当てはめようとする。例えば、他人に危害を加えるような行動は抑制しようとするし、勉強や運動は望ましいこととして推奨する。 教育で一番望ましい形は、子供が自発的に模範的な行動をしてくれることだろう。もし何も言わずに子供が自ら模範的な行動をしてくれたとしたら、それは無意識的な教育の結果であって、周囲の人間がその模範的な行動を実践していてその子もその行動を自発的に真似ることによる。この場合は親・先生はその模範的な行動をさらに推奨すればよく、教育的にはとても楽だ。 そのような理想論ばかりではないので、大抵は、注意または強制的な介入で子供の行動を変化させなくてはいけなくなる。この場合もまずはその子供以外の周りの人間が身につけさせたい模範的な行動を実践していたらその行動を推奨しやすい。周りの大半がやっていることは正義、正義だから大半の人がやっている、と。 その注意、介入による行動は、その子にとっては自分の直接的な意思ではなく、他人の判断基準に従ったものだから他律となる。親・先生にとってはもちろん注意、介入は一時期なもので、最終的には模範的な行動は、その子が自律的に行ってほしい。そしてそれが教育の部分的なゴールとなる。 親・指導者は、全てが他律的な指導でうまくいくとは通常は考えない。本人の意識に逆らうことばかり言えば、その子はストレスがたまり反抗するだろうし、指導する側もさじを投げるだかもしれない。なので、まずは周りの人間がその模範的な行動をしている環境を用意する必要がある。ある程度は自発的にその行動を真似るよう促して、できるだけ直接的な指導、すなわち他律を少なく抑える。そして

子供にとってのプログラミング

 習い事でプログラミングが流行っている。近所に教室も増えてきた。単なるプログラミングではなくロボット工作との組み合わせが目立つ。息子も小学校からChromebookが貸し出されて授業で少ない時間だけどScratchというビジュアルな言語で短い時間だがプログラミングを体験したようだ。 私自身がソフトウェアエンジニアなので日常的にプログラミングをしている。初めてプログラミングに触れたのは大学に入ってからでこの分野に関わって20年近くになる。なのでプログラミングその周辺はよくわかっているつもり。 プログラミングとはPCを使ってキーボードを使ってコーディングすることだと思っていたけど、最近はピタゴラスイッチみたいに、パーツを組み合わせて仕掛けを作るおもちゃもプログラミングを謳っている。明らかにブームに便乗だけど本来のProgrammingの意味からするとこれも間違いではない。 いつ頃から何がきっかけなのか正確にはわからないが、おそらくアメリカ発のSTEMやSTEAM教育(Science, Technology, Engineering, Art, Mathematics)が言われだし、その後にAIブームになってIT・AI人材が不足と騒がれはじめたあたりだろうか。 プログラミングをする効果を大きく3つあると思う。 1つ目の論理的思考。プログラミングは曖昧さが許されない。完全に言語のルールの則って記述しないとエラーになる。そこが数学に通じるところになる。考えてコーディングしていくことは論理的思考そのものだ。 2つ目はソフトウェア、IT分野の知見。もしもこの分野で仕事をするなら覚えるべきことがたくさんある。理想的にはプログラミングだけでなく、OSの深い部分、さらにはハードウェアの知識も必要になってくる。例え技術者にならなくてもこれだけ周りに囲まれているものについてある程度は知っておいて損はない。 3つ目が試行錯誤と創作の体験。プログラミングが組み立て工作や電子工作などと比べての利点はすぐやり直しがきくところ。基本的にものが壊れるということがない。いくらでも試行錯誤を繰り返すことができる。私としてはこのことがとても大きい。そして作ろうと思えばお金もかからずアプリ、ゲームなどを無制限で作ることができる。 小学校で習うプログラミングは時間が短すぎて何かを身につけるという効果はほほないと

思想と哲学の違い

 「思想」と「哲学」はよく同じ文脈で使われているように見える。2つとも「考え」のお硬い言回し。 この2つの違いは「思想」は既に出来上がった固定的な(傾向のある)考え方で、「哲学」はその思想に辿り着くための試行錯誤の改造の過程を指す(傾向がある)と思っている。 「哲学する」「哲学をする」という哲学の動詞の使い方は見ることがあるけど、「思想する」は見たことがない。やっぱり「思想」は「考え」で、哲学は「考えること」という意味合いになる。ここから哲学の方がアクティブなイメージがある。 でも哲学も「考えること」だけでなく「考えた結果」そのものを指すこともよくある。人生哲学とか経営哲学とかいう言い方をする。これらは人がこれまでの人生、または経営の中で辿り着いた考え方、または行動原理を指す。上の考えからするとこの場合は「哲学」よりも「思想」の方が意味からすれば適切ということになるけど、「人生思想」という言い方は聞いたことがない。 思想も哲学もただ「考える」「考え」でなく「深く考える」「深い考え」の意味を含んでいる。熟考でもいい。なぜ深く考えるのかというと、今までの考えでは通用しない場面に遭遇したから。それを変えなくていけないと感じたから。そして今度同じような場面に遭遇しても大丈夫なようにするため。これまでの考えで特に問題は起きなかったら人は深く考えない。 この新しく考えだしたときに分岐点がある。何か終局的または至高の考え方があると思ってそれを目指して今考えているか、それともそんなものはないと思うかだ。「思想」は体系的でまとまった結論的な考えのイメージで、「哲学」はそこに至るまでの過程を含めたものというイメージがある。「思想」は終わりを目指して考えるけど、「哲学」は生きている限り考え続けることで、言い換えれば生きることそのものになる。 関連記事 哲学者への道

マシュマロテストと自制心

マシュマロ・テストという、教育関連、特に非認知能力について扱う書籍などでは必ずといって出てくる有名な心理学のテストがある。 オリジナルは1960年代に4歳児を対象にして試験者が被試験者の幼児に「目の前の1個のマシュマロを15分間食べるのを我慢したら2個あげる。」と伝え、その子が我慢できるのかをみるテスト。そしてこのテストでマシュマロを我慢できたかの可否、すなわち、この年齢で目の前の欲求を抑制して、目の前の小さな利益よりも将来の大きな利益を選ぶことと、将来の学歴や年収などのいわゆる社会的成功とよばれるものとの相関が大きかったことから一躍有名となった。 しかしその後、より大規模の幼児を対象にした試験でマシュマロを1個または2個選んだ結果よりも、家庭環境(親の年収と学歴)のほうが子供の社会的成功との相関が大きいという研究結果が発表された。つまりマシュマロを1個選んで目先の利益を取っても親の学歴が高い子の方が、マシュマロを2個選んだけれど親の学歴が低い子よりも、社会的成功に結びつきやすいということになる。この報告ではマシュマロ・テストの結果は限定的とされている。 この追試験でマシュマロ・テストの神秘性は薄れただろう。だけど、まったく無意味になったわけではない。家庭環境と子供の将来との相関関係、マシュマロ・テストはその相関の解明の橋渡しとして使える。 4歳の時点でマシュマロを1個選ぶ子と2個選ぶ子の違いはどこから生じるのかを考えてみたい。 まず、子供に試験者が伝えた約束の言葉「我慢したら2個あげる」。そもそも子供がこの言葉を信じるかどうかがテストの前提にある。普段から人の言うことが信用できない、大人の言うことと実際の行動が違うことばかりのような環境で育っていて人間に対する信頼感がないとしたら、目の前の利益は取られる前に自分で取ってしまうのが合理的な判断になる。 2つ目に、子供にストレスが溜まっていかどうか。大人でも例えば仕事が忙しく気持ちが余裕がないときは、頭の中で立ち止まって考えることなく甘いものや酒に対する欲求に抗えなくなる。幼児もこれまでに欲求が十分に満たされないで育ってストレスが過剰な場合、常に感情がそのまま出やすい状態となっている。 3つ目として、子供の早熟性、成長の早さがある。このテストは4歳という微妙な年齢だから成り立つテストだ。年齢があがるほど、先送りが得とな

スマホ中毒と読書中毒

 例えばドラえもんの話。のび太が成長して一人前になってしまえばドラえもんは未来に帰ることになるので、番組的(漫画的)にのび太のドラえもん依存は終わらせることができないという事情がある。とはいえ、ドラえもんがのび太を助けるために未来の道具を毎回ポケットから出している限りのび太は真に成長することはないと視聴者(読者)の多くが思うだろう。 基本的に便利な道具に頼るようになれば頭脳を含めた身体能力のどこかが衰えやすくなる。自動車は分かりやすい例だろう。今の日本では田舎ほどどこへ行くにも自動車が必要になるので歩く距離が短くなり足腰が衰えやすい。便利な道具によって浮いた時間を使って、以前は生活で使っていた身体機能を意識的に使用することによって衰えを防止していかないのは皮肉なもの。 さて、自動車の次に革命的に現代人の能力を奪っているのはスマホだろう。ワープロ・PCの時でも例えば漢字の自動変換を使っていくことによって、いざというときに漢字がかけなくなることがあるのは私を含め多くの人が体感している。スマホはそれよりさらに私達の記憶や思考の肩代わりをしてくれる。 スマホは単なる記憶・検索デバイスではなく、ソーシャルネットワークの機能が充実して自分に対するメッセージなどが次々と来るフォードバックがあるためそれが気になって離れられなくなる。PCは家・職場を離れれば開くことはできなかったが、スマホはいつでもどこでも一緒にいることができるのでさらに恐ろしい。片時も放すことができず、隙間時間があれば自分へのフィードバックや情報をチェックせずにいられなくなる。駅のホームでの待ち時間や電車の中だと今やほとんどの大人がスマホをいじっている。 私自身もスマホ依存症・中毒のことを知って、脱スマホまではいかなくともスマホの使用を減らそうとして一時的には成功したが、しばらく経つとまた使用時間が増えてきた。一度慣れるとそれから脱するのは本当に難しい。 スマホが人の考えることを肩代わりして、情報を常に送り続け、脳の考える力と休む時間を奪っているということを知ってから、実は読書も少なからず同じことが当てはまるのではと考えるようになった。ただひたすら本を読んでいくのならネットサーフィンするのと同じだ。もし読書がスマホの電子書籍の場合はさらに似ることになる。私も知識を求めてただひたすら本を読んでいく時期があった。読んで

非認知能力とは健全な生活習慣と積み上げてきた経験

主に教育の分野で「非認知能力」という比較的新しい言葉がある。本のタイトルに入っているのもよく見かける。国語数学などの科目テストや知能テストなどで測れて数値で表せる認知能力に対して、簡単には測定できなくて数値化が難しい能力を表したものだ。 その非認知能力が何を表しているのかは本や人によってまちまちだ。例えば、やり抜く力、自制心(セルフコントロール)、粘り強さ、忍耐力、復元力(レジリエンス)、計画性、創造性、協調性、コミュニケーション能力、自尊心、自己肯定感など語句がちょっと調べると挙がってくる。 これらを能力を全て持っているとしたら完璧人間になる。 非認知能力というのは人間としての総合力そのものを指すことになる。 この非認知能力のリストを整理しておきたい。 この語句の中だと「やり抜く力」は本のタイトルにもなっているし特に有名だが、なにかをやり抜くというのは結果を出すということであり、結局は総合能力が高いというそのものになる。 自制心とは、未来の大きな利益を見据えて目先の欲求、小さな利益を我慢することだ。計画性も自制心がないと成り立たない。計画性は当初の計画その通りに実現して初めて評価される。協調性も先を見据えて自らを律して他人に合わせることだからほぼ自制に近い。 復元力(レジリエンス)とは、失敗したときにめげないで立ち上がる力のこと。これは「やり抜く力」の大部分を支える要素と言えるかもしれない。一つのプロジェクトでの諦めないで再チャレンジする力なら、これまでの人生でやり遂げてきた経験値というものが大きい。今までやり遂げてきたというのだから、今回もできるに違いないと思えるわけだ。自尊心、自己肯定感というものもこの経験値とほぼ同一で、実績のある自分を信用できるというわけだ。 結局は、非認知能力とは最初のリストから整理すると「自制心、セルフコントロール」と「復元力、レジリエンス」の2つに集約するのが適切かと考えている。この2つももう少し踏み込んでみたい。 自制心も突き詰めればその人の生活習慣に大きく依存している。自制の大きな障害になるのがストレスで、例えば忙しくてストレスが溜まると、頭では分かっていてもついつい甘いものを食べすぎてしまったりする。様々な研究から運動、食事、睡眠、すなわち生活習慣が感情、ストレス、脳の働きに大きな影響を及ぼすことがわかっている。 適度な運動をし

紙と電子書籍の違いと本棚の役割

 まずは紙の書籍と電子書籍について私が感じている利点・欠点について。 私が最も読書をするのは通勤時の電車内。立って読むこともある。この点からすると電子書籍はとても便利。Amazon Kindleを使っているが軽いし端末内に何冊でもデータを入れておくことができる。スマホより大きいがタブレットよりは小さく、片手で持って指タッチでページをめくることも問題ない。文字の可読性は問題ないけど図や絵は細かい場合が見づらいところは不便な点。またページをパラパラとめくって全体を見渡したい場合はやっぱり紙の書籍の方に利がある。 家の中の読書では持ち歩く必要がないので紙の方がよいけど、持ち歩いて電車内で読む分には電子の方が便利。しかし本はまず図書館にある本は借りることを優先しているので、紙の本を鞄に入れて持ち歩くこともまだまだ多い。図書館に置いてなかったり借りて読んでみて、これは持っておきたいと思った本は購入している。その場合は電子があれば電子を優先して、ない場合は紙を買っている。 以上は読書の快適さの話だけど、紙と電子のそれ以外の違いは譲渡や共有できるかどうかだ。電子書籍は現状の仕様ではそれができない。電子書籍は「所有」ではなく「データアクセスの権利」という扱いになっている。この点では紙の本の方が完全に優れている。だけど紙の塊は経年劣化していく。特にカビに対する管理はなかなかやっかいだ。ここでも利点欠点がそれぞれ裏返しになっている。 Kindleごと他人に貸すことはできるけど、これはスマホを貸すことに近いもので抵抗がある人も多いはず。誰でもあまり他人に見られたくない本があるのでは。少なくとも私はある。アカウント間の譲渡を認めるとそれはシェアでありその分売上は落ちるので、今後も実現することはないはず。 電子は個人の端末前提なので他人に見られたくないデータをいくらでも持つことができる。紙の本でも自分の部屋の本棚で誰にも見せることがない場合もあるけど、少なくとも家族、または家に来た友人が見る場合など、誰でも多かれ少なかれ他人に見られることを意識した本の構成になっているのではないだろうか。それは見られたくものを排除という消極的なものから、自分の趣向を見せるというブランディングのものまであるだろう。それは意識的にせよ無意識的にせよ。 電子の端末は隠された収納で言わば裏の顔で、実物の本棚は単なる収

自立、自律、自制、自主、自発

 「自」がつく2文字の言葉を5つほど並べてみた。いずれも「自分で〜する」という意味合いになる、主に教育関連の本で出てくる語たち。共通の意味合いもあるし微妙に異なりもする。ここでは私が感じている意味をまとめてみる。 「自立」と「自律」は同じ読み方。「自立」は自ら立つということで、他の助けなしで何かができるということ。「自律」は自らを律するということで、自分の行動基準を持ちそれに当てはまるかを判断しながら行動できるということになる。自立は一人前として通用する能力面が強調されて、自律は自らの意思で行動の面が強調されている。 「自立」と「自律」はうまい具合に意味合いが違うため、2つの「じりつ」セットで学校教育の目標によくあげられる。社会人としての仕事をこなすだけの力を身につける自立と、自ら考えて行動し周りの人に迷惑をかけずに模範的であるための自律。教育面でいえば「自立」は学校教育の目標であり卒業までに達成すればよく、「自律」は学校生活中にも生徒にもできるだけ求められる性能ということになるだろう。この2つだけでも多くの人が納得できる無難な教育理念だと言える。 「自制」は自分を制御するの意味となり、その制御の結果として自らの基準に当てはめる行動となる。「自律」と重なる部分も多いが、その行動のために邪魔となる衝動を対処することが強調されているイメージだ。 「自主」は自分が主となって行動するとなり、自律と似た意味となる。違いは、自主は「自分自身で」ということが強調され、それと比べると自律は自らの「行動を判断する」という面が強調されている。 「自発」も自分から行動すると意味で「自主」と似ている。しかし「発現」の発なので、自然と湧き上がって行動する、言い換えれば、他人に強制されず「自然と行動する」という面が強調される。 漢字の意味から意味の違いをやや強引にひねり出してみたが、今度はその意味をもう少し掘り下げてみたい。特に「自律」。自律はこの5つの中で唯一「他律」という対義語がある。他律は他人から言われて、または強制されて行動するという意味となる。また他人が関与していなくとも衝動的に行動してしまう場合や、何も考えずにただ流されて行動する場合も他律に含めることがある。 自律の本来の意味は自分の行動を「自分の基準」に当てはまて判断することだけど、社会で通用する模範的な基準でなければ「自律」し

教育上読書はよいけど漫画はどうなのか

 読書という行動は大人の趣味としても教育上の子供の活動としても、ほぼ無条件で良いものとされている。ビジネス本でも教養のための読書はたいていは含まれているし、教育本でも子育てにおいて読書好きにすることは必須の項目となっている。 教育においてなぜ読書が良いのかというと、まずは読書によって知識の幅が広がりそれが体験へと繋がり、さらに次の知識欲へとなるという「読書と体験の連動」効果。 読書→体験→読書→ …という流れだ。 そして本を読めば語彙力が上がり、国語をはじめ他の教科の学力向上に繋がるという狭い意味での効果もある。 読書も幼児期や小学校低学年くらいまでは絵本が中心になるだろう。絵本の読み聞かせも子育ての定番活動になっている。ここで問題になってくるのは漫画は良いのかどうなのかということだ。 私も子供の頃から漫画を多く読んできた。藤子不二雄から始まってドラゴンボールを中心としたジャンプ系漫画が子供の頃の思い出だ。息子も時を越えて藤子・F・不二雄の漫画を読んでいる。単純に面白いから読んでいる。読んでいる本人は教育的効果なんてどうでもいい。でも少しそこから離れて考えてみたい。 まず漫画と絵本の違いはというと、漫画はページ内が枠線でコマ割りしてページ内に絵による情報量が多く、キャラのセリフのふきだしで誰が発しているのかわかりやすい。絵本は基本的に全て一連の文章のみで状況説明を行う。だが、絵本でも部分的に漫画風にコマ割りされていたり、ふきだしがあるものも多いのでその境界は曖昧だ。 教育上の読書の目的の一つが語彙力や国語力の向上だとして、そのために絵本がよいのなら、漫画の方も問題ないと思う。だけど、もう一つの目的の「読書と体験の連動」でいうと違いがある。漫画を一冊読み終わると、それがきっかけにどんな次の行動に繋がるかというと次の漫画一冊という可能性が高いだろう。もちろん漫画でも例外があって漫画以外の行動に現れるものもある。現に息子も漫画の絵を描いたり漫画内のロボットの工作をしたりもしている。 絵本は物語の内容(フィクション)も多いが、それ以外のノンフィクションの内容、すなわち社会、生活、文化を教えるものもある。ノンフィクションの影響は、次の行動が次の読書へ向かうだけでなく自分も試してみよう、行ってみようなど読書以外の行動に向かう可能性が物語より高い。そこが物語とノンフィクションの大

自分で考える力を身につける子育て

 「自分で考える力」などは特に教育の分野で常々言われている言葉だと思う。学校、組織の教育目標の一つに入っていたり、子育て・教育本でも頻出している。時代、地域関係なく必要な力だというのは間違いない。 ここでは家庭教育を念頭に置くと、子供が考える力を身につけるために親が気をつけるべき点がとりあえず3つある。 1つ目は、子供に自由な時間を与えること。子供は自由な時間の中だと何をするかは自分の頭で考えて決めるしかない。とても単純だ。例えば子供の放課後の時間が全て習い事で埋まったりしたら自分で決めることは何もない。 2つ目は、子供になるべく消費する娯楽を与えないこと。こちらの方が難しい。難しいのでなるべくを付けている。「消費する娯楽」を具体的に言えば、主にテレビ、YouTube、ゲームなどの映像メディアなどだ。これらの娯楽は制作側がのめり込んでもらって時間を消費してもらうよう設計されている。それに乗っかることは製作者の意図通りの行動をすることになり、この場合は親の都合ではなく製作者に考える時間(と料金)を奪われていることになる。どのチャンネルを見るかどのゲームで遊ぶかの選択は「考える」というよりも「反応」しているという表現の方が適切だ。 これは極端な言い方で、全ての娯楽に当てはまるわけではもちろんない。例えばテレビ番組をきっかけになにかを思考し生活の行動が変わることもある。ゲームも例えば低レベルクリアのように制作側の意図を超えた頭を使う遊び方もできる。しかし消費する娯楽はただ中毒的にこちらの時間を奪われる可能性があることを留意しとかないといけない。それが中毒的かどうかは時と場合とその娯楽次第としか言えない。 消費の対義語は生産になる。消費する娯楽が考える力を奪うなら、考える力を養うのは何かを生産する作業になる。これは大体において当てはまると思う。絵を描く、工作などは子育て本でもよく奨められるよい例だ。 そして、3つ目は「考える力」というのは、単に頭だけの作業でないということだ。五感との連動を切り離して考えるべきではない。手、足、体全体を使う作業は脳と密接に絡み合っている。それらなくして健全な考える力は育たないと思う。この意味でも多くの映像メディアは眺めるだけで他の感覚を使用しない。絵描きや工作は複雑な手の運動を要求される。 まとめると、子育てで「自分で考える力」を身につけるな

メダカの個性と価値

我が家の鉢には少なくとも4種類のメダカが混じっている。 実は2回、それぞれ別のところから譲ってもらっている。 知り合いにもらって最初に家に来ることになったのが、いわゆる「普通」のメダカたち。少なくとも3色のメダカが混じっていた。おそらく黒メダカ(原種?)、オレンジのヒメダカ、そして白メダカ。中にはぶち模様のものもいる。元の飼い主さんは混じっていることは何も気にしていないようだった。 すぐに鉢を買ってベランダに置いてメダカたちを入れてしばらく元気で死ぬこともなかったのだが、ある日半数近くが突然死した。一斉なので偶然とは思えない。なぜかそのほとんどは白メダカだった。その前の日にベランダの工事で業者の人が入ってメダカの近くで作業をしたぐらいしか思い当たらないが、原因は特定できなかった。 この最初のメダカをきっかけに私もメダカのことを少し勉強した。そして今の時代は鯉や金魚のように様々な品種改良によって生み出された美しいメダカの種類があることを知った。今の「普通」メダカたちもそのまま子孫繁栄していってほしいと願いつつ、かつそのような美しいメダカも飼ってみたいと思うようになった。 その機会は突然訪れる。息子と一緒に近所を散歩していたら、玄関先に多くの容器に多様なメダカを飼育している家があった。どれもが本やネットで見た「普通」ではない光っていたり様々な模様を持っていたりする美しい種類のものである。2人でそのメダカたちを眺めていたらすぐにその家の方と知り合いになった。どの家もメダカ増えすぎ問題があるのだろう。できるだけ頻繁に誰かに譲っているとこのことで、知り合ったばかりの私達もどれでも好きな品種を頂けることになった。 そのときは一旦帰ったが、一応妻と相談し改めてこれ以上容器を増やさない約束で、新たな種類のメダカを迎え入れることになった。改めて見せてもらって息子と相談して決めたのは「夜桜」という小さい錦鯉が部分的に光っているようなきらびやかな品種だ。ネット販売で見ると買った場合は決して安くないメダカだ。 それからしばらく葛藤の時が始まることになる。時が経った今でも正直残っている。最初にもらった「普通」メダカと新たな「高級」メダカを同居させていいのかという葛藤である。夜桜を頂いた方は当然メダカに大きなこだわりがある。種類ごとに厳格に分けて飼育している。混じって交配してしまうとその子たち

メダカ増えすぎ問題

 メダカを飼う人がほぼ全て直面する課題の一つが増えすぎるメダカの対処だと思う。まだ一夏の経験しかない私でも産む頻度と量を見れば容易に想像がつく。 真っ盛りの真夏にはメスはほぼ毎日10個単位の卵を産んでいく。しかも通常はメスは容器に複数いることだろう。その卵を真面目に回収し稚魚を育てようと思ったらねずみ算も真っ青だ。しかも夏の始めに生まれたメダカは夏の終りには成熟し卵を産めるようにもなる。 私のような初心者はそのことがわかっていても回収して別容器に移さずにいられない。初心者ゆえに観察欲が旺盛なのだ。事実、稚魚の日々の成長を眺めるのはとても楽しい。稚魚を別容器に移すのは親メダカと同じ容器のままだと稚魚は親メダカにすぐに食べられてしまうからだ。メダカは餌と自分たちの稚魚の区別がつかない。 言うまでもないが、飼育のための容器を大きくする、または容器の数を増やすことはその場しのぎで根本解決にはならない。例え容器を増やせても、その容器の置き場には限界がありすぐにその時が訪れる。我が家の場合は、メダカ飼育を始めた時にベランダに置くために最初から容器は鉢一つと妻と約束した。(後に稚魚用の小鉢を横に置くことをしぶしぶ了承してもらったが。) 根本解決は単純で2つしかない。卵または稚魚を放置してそのまま親メダカの餌にする、または誰かにあげるかだ。ビジネスセンスがある人は販売もできるかもしれないが。自然の川、池に放すのは生態系を乱すため厳禁とされている。飼育用のほとんどのメダカは品種改良されたものでそれが野生の種と交わるからだ。 誰かに譲渡していくのもすぐに知り合いの伝手は尽きそうで、最終的には卵を回収しないで放置しかなさそうだ。そもそも閉じた生態系の構築を目指しているのでじきにそうなる予定ではいる。

哲学者への道

 「良い妻を持てば幸福になるだろうし、悪い妻を持てば哲学者になれる。」 ソクラテスの結婚に関する格言だけど、私が哲学の本を読みはじめたきっかけも結婚だったかもしれない。でも最初に言っておかなければならないのはうちの妻は決して悪い妻ではないということだ。上の言葉で間違いがあるとするなら、結婚したら多かれ少なかれ、意識的にまたは無意識に人は哲学者になると考えている。 人が哲学を始める条件として周りの環境が変化することが必要になる。何かしら変化することによって、これまで当たり前と思っていた価値観に初めて疑惑の目が向けられることになる。これは体験が伴っていなくても読書による知識だけでも起こりうるかもしれない。環境が変化してもこれまでの価値観が揺るぎない、または新しい価値観に手のひらを返したように切り替えられたら哲学をする必要がない。多くの場合は以前の価値観と新しい価値観の折り合いをつけなければならず、その思考過程が哲学というものだと思っている。 哲学の専門家は人類史を舞台にして価値観について考えるのだけど、一個人は自分の日常舞台にして考えることになる。技術が発達したり、移民が入ってきたり、またはコロナウイルスが流行することによって社会が大きく変わることをネタして考えるのが主に専門家だけど、結婚は多くの人が経験する最も身近な異文化交流であり生活環境の激変だ。 ソクラテス時代の古代ギリシャは、今の日本よりは男性優位の社会だっただろう。なので結婚しても男が価値観を変えずに済むことがあったかもしれない。それが「 良い妻を持てば幸福になるだろうし、」の部分になる。今の日本では完全ではないけどだいぶ男女平等が浸透しているので、格言はこう書き換えたほうがいい。 「結婚すれば誰でも哲学者になれる。」と。

夫婦関係の標準とは

 どの程度の夫婦の仲の良さ(悪さ)が普通になるのだろうか。定量化するとしたら、週にまたは月に何回喧嘩をするなどのアンケート結果でその平均や中央値といったところになるのだろう。 喧嘩といってもレベルがある。小言程度のものから離婚が見えているものまで様々だろう。まったく喧嘩はしなくても家庭内別居状態で実は喧嘩している状態がまだマシというものもある。 他の家庭の夫婦仲をなかなか観察する機会がない。直接は自分自身と両親しか知らない。女性なら主婦同士でこの辺を話題にすることは多そうだけど、男だとほぼ話題にすることがない。それでも本で読んできた知識や少ない聞いた話からすると、喧嘩をするのは普通であって妻は夫に対して常にイライラしているのも普通と言えるようだ。普通といっても少ないけど珍しくないという意味から半数以上まで幅があるのだけど、おそらく半数以上でないかと思っている。 この普通の状態の定義からすると我が家は普通になる。2人で一緒にいた場合、やっぱり妻は私に対してイライラしていないときよりもしている時間の方が長いかもしれない。私が気にしない細かいと思うことが妻にとっては細かいことではなく気になってしょうがないようだ。だいたいはよくそれが発端となって喧嘩になる。喧嘩といってもこちらはほぼサンドバッグ状態になって聞いているしかない。愚痴のシャワーを浴びる時間と言えるだろうか。 そもそも人間には女の方が男よりも詳細なことに気づくという性差が元々ある。それは種をばらまきたいために広く浅い目を持つ男と、我が子の質を高めたいために厳しく精査したい女の非対称性に由来している。なので男女が一緒に暮らしていたら女のほうが男に一方的に不満を募らせやすいのは避けて通れないことなのだろう。 不満を募らせるにしても、それを定期的に小出しに発散させるのと溜めてから一気に爆発させるのでは違う。間違いなく小出しの方が平和に近いと思う。幸いなことに我が家はこちらの型のようだ。一見平穏に見えてある日突然何かが起こる爆発型は考えただけで恐ろしくなる。 喧嘩をしていて私達はなかなかやばい状態なのかと思えることも時々ある。だけど妻は私に日常的に私以外の日々の不満を聞くことを強制してくるので、この点で頼られている?間は少なくとも最悪の状態ではないと思っている。 この記事では我が家の妻が悪者っぽい書き方に捉えられるかもし

メダカの飼育 - 閉じた生態系という目標

 この夏にメダカの飼育という新たな趣味が一つできた。知り合いの知り合いから息子がメダカをもらうことになった。だけど案の定というかすぐに世話は父親の役目となる。きっかけは息子だがすぐに自分の趣味となった。ベランダで10号の鉢(容量約10L)で飼育している。小学生の頃にも飼っていたけどよく覚えていないのでほぼ初めての感覚だ。 今ではその鉢を毎朝出勤前に眺めている。餌を与えてメダカの動きをただ眺めているだけでもなかなか飽きない。もらってすぐ卵を産んで隣に置いた小さな鉢(どんぶり)に分けている針子(稚魚)の日々の成長も楽しみになっている。 正確には眺めているのはメダカだけじゃない。水草が日々伸びていく様子、鉢の壁面につく藻を食べてもらうために入れた同居人のミナミヌマエビ、いつの間にか発生してくるミジンコ類など、鉢の中のその小さな生態系の毎日眺めてその変化を実感することがおもしろい。 正直、私は面倒くさがりの性格なので、眺めるのはいいのだけどできるだけ手入れをしたくないという思いもある。放置と言ったら言葉がよくないので、鉢の中に小さな閉じた生態系と作り上げてあとは自動で循環してもらう、と言い換えたら印象が良いだろう。今は餌を与えているけど水換えは行っていない。水草を多めに入れているせいか水の透明度はそれなりに維持できている。餌を与えないで循環させるためには、容器に対してメダカの数が多いかもしれない。10Lに対して20匹近くはいるのだ。 親メダカは小さい稚魚と餌の区別がつかずに食べてしまうため、稚魚を育てるために親メダカと分離するのが鉄則となっている。閉じた生態系を目標にするのならここも手を加えないでおきたいのだが、その場合は稚魚が隠れて育つためにさらに植物の密度を高める必要がある。水面に浮かび根が多いポテイソウがよい聞くが、その場合は観察しにくくなる問題がある。水槽と違って鉢の場合は真上からしか眺めることができない。 まだ経験も足りないし、観察も重視したいのですぐには無理かもしれないけど、数年のうちには循環環境を実現したい。 関連記事 メダカ増えすぎ問題

読書メーターというSNS

趣味の一つが読書で、現在の趣味の中で占める割合の数値にするとしたら40%くらいになるだろうか。以前に図書館から大量に本を借りてきては貪るように読んだ時期があった。最近は分野の幅を拡げる段階が一段落したと感じていて新規の本を読む割合がだいぶ減った。その代わり自分が大事だと思う本を繰り返し読んでいる。 今の読書の趣味と切り離せないのが 読書メーター というSNS。Facebookはとうの昔にすぐに止めてしまっているけど、この読書メーターは特に無理をせずに丸6年も続いている。フォローする、されるは他の多くのSNSと同じだけど読書メーターは投稿内容は本の感想がメイン。Twitterのように読書と関連のないつぶやきも投稿できるけどそれはサブでしかない。 Facebookは本名で繋がっている人たちの近況が留まることなく目に入ってくる。その近況は一応は本当なのだろうけどおそらく着飾っているところも多々あって、ただ自慢を眺めることになる。それに反応してこちらも負けじという気持ちになってしまったら沼にはまってしまう。自分の悪い面はうまく隠すことができるので、人間関係の悪い面が強調されやすい道具なのだと思う。やったことはないがInstagramも似たところがあるだろう。 読書メーターは本名でない。一部本名の人もいるかもしれないけど。投稿文字数も255字の制限があるしFacebookよりはTwitterに近い。あくまで主役は本のため投稿者の自己主張はできるけど投稿者自身はメインにはならない。Facebookと違って他人と自分を比較するようなことが起こりにくいし、自分をブランディングする必要もない。感想の投稿数は本当に人それぞれなのでそれで競い合うようなことはない、マイペースで進められる。でも一部に人は感想の「ナイス」(FacebookやTwitterでの「いいね」)を集めることが主目的になっている人もいるかもしれない。 フォローしている人の感想に触発されて、自分の読みたい本が増えていくのは好循環といえる。そして感想は書いて投稿する作業によって自分の考えの整理と文章の上達もできると良い事ずくめ。少なくとも私の場合。 同じ本を読んでもそれに対して抱く感想と、その書き方は千差万別だし、その人を構成している本の分野の組み合わせもほぼ同じ人がいない。一部は自分と似たような本の傾向と思ってもその他の

ブログを書く目的(立ち上げ時)

 ブログを書く目的は大きく3つに分けられる。 1.他人に見せるため … 承認欲求 2.自分のため … ライフログ、思考の整理、文章力の向上など 3.収入を得るため 書いた文章をわざわざ公開するのだから1の理由が入らないブログはまずない。2の自分のためだという理由が一番だとしても、もし記事を書いて数ヶ月自分以外の訪問でカウンタが増えなかったら大抵の人は続けることができないだろう。 3はブログによってまったく動機に含まれないものもあるけど、今はブログ主が意図的に広告を入れて、その収入が動機の大きな割合を占めているように見えるブログがとても多い。その程度はほぼ収入が主目的のものから、書きたいことを書いてあわよくば収入をという程度のものまで様々だろうけど。 このブログを始める今、私が考えている理由は1と2が混じったもので、1と2の割合は半々くらいかと感じている。自分で自分のことを理解することと文章力の向上が主な動機なので内容は雑記系にしていきたい。これまでブログはいくつか書いてきて趣味や特定の分野に特化したものばかりだったけど雑記系は初。なんというのだろう、あまり全体的なことを考えずに思いつくまま、行きあたりばったりに書いてみたくなったのが理由になるのだろうか。 特定の分野に特化したものと比べると、雑記系はPVは集まらないかもしれない。それでも、少しでも誰か他人の役に立ったり、心を動かすことができればという思いもやっぱりある。動機の維持のためにある程度のPVは必要なのだけど、PVを増やすために書くというのも手段が目的になってしまい、この辺はなんとも難しい。 今のところ広告を入れる予定がないので3は理由に入っていない。今のWebに氾濫している広告まみれのブログは読みにくくてうんざりしている。少しでも読みやすくできればと思う。