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子に伝えたい3大奥義 読書・歩く・瞑想

親が子に見に付けてほしい能力、習慣は挙げていったらきりがないと思うけど、大まかに言えば、「頭・心・体」になるのではないか。頭は学力や思考力、体は体力や健康に相当する。心の場合は自制心や社会性が適切だろうか。情動的知能(EQ)という言い方もある。 子供はそれぞれ違うので、親が言いたいことも違ってくる。例えばいつも友達のサッカーばかりしているような子供に対しては社会性や体力に関してはあまり強調する必要はないかもしれない。親が子に敢えて口に出していう指導は少なければ少ないほどいい。多ければ多いほどそれぞれの効果が薄まる。 子供に対して〇〇が大事と口を酸っぱくして言ったとして、言葉の上では分かりはするだろうけど実際の行動はなかなか変わらない。やっぱり具体的な活動に落とし込んで、それに親も一緒に取り組むのがいい。 我が家の場合になるけど、小学校低学年の息子に対して父親の私が取り組みたいことを考えたら、読書、歩く、瞑想の3つになった。息子関係なく私自身も死ぬ直前まで死ぬ直前まで取り組みたいと思う習慣でもある。3つというのは多いかもしれない。でも最初の2つは既にある程度は習慣になっていてさらなる固定化を目指すもので、新規項目は最後の一つ。なのでなんとかなるのでは考えた。 年始にこれらの3項目を親子で一緒にやっていきたい「人生の3大奥義」というちょっと大げさでカッコつけた言い方で伝えてしまった。なので記事タイトルでもそのまま使うことにした。実はこれらは父親と息子間で話したことになる。母親は母親で日々伝えたいことを伝えている。そちらとのバランスも必要になる。 読書 小学校低学年のうちは勉強に関しては、学校の宿題をこなしていたら家庭では追加の問題集的な勉強はする必要がないと考えるようになった。学校の宿題が思いの外たくさん出ているというのもある。でも読書だけはやれるだけやっておいた方がいい。これは高学年以降の学校の勉強に繋がるという近い効果もあるし、人生において役立つという長い目の意味もある。 読書に関しては幼児のときから意識的に取り組んでいるので、今も本を読むのは嫌いではない。大人になるためには色々なこと知る必要があり、そのためには読書が必要ということを頭では理解しているらしい。でも今もし私が何も言わなくなったら読むにしても漫画だけになるかもしれない予感もある。なのでまだしばらくは一緒

親の教育的役割は一貫した行動を示すこと

 父親、母親の役割というのは地域、時代によって違っていて固定的なものではない。だけど性差というものはどうしてもあるので、父親と母親それぞれにある程度の役割分担があるということはいつでもどこでも変わらない。 今の日本はというと、だいぶ女性の社会進出が進んできて、「イクメン」という言葉が出てきたように一昔前と比べて父親の家事、育児への参加が社会的に推奨される雰囲気になってきた。 これは都市部限定かもしれないけど、「社会的繋がり」が希薄になっているために、子育てに対して家族の役割と負担が大きくなってきている。村で子供を育てるというのも今は昔。「自由」であるとも言えるし「自己責任」であるとも言える。 一方で父親が会社で求められる成果、役割は変わってこないので父親の負担は増している。また「イクメン」というのも完全に家庭の領域に入るわけではなくて、母親の領域に一部進出するということなので、衝突が起きやすく上手くしないと母親の反感を買うだけになってしまう。今の日本都市部の父親像だろうか。 育児書の方を眺めてみると、子供との直接的な関わりはまだまだ母親主体であって、父親はサポーターないし縁の下の力持ち的な役割という内容をよく見る。また、社会的繋がりの減少によって今の母親の負担は増している、そして家庭の空気というものは母親の機嫌次第であるために、父親は母親のご機嫌取りが一番の役割と言っているものもある。なかなか当たっていると思う。 我が家の場合は、私の平日の帰宅は遅いので家事は妻任せ。子供と過ごす時間はあまりないけど、でも少しだけ一緒に遊んだり風呂に入ったり本を読む時間はなんとかなる。休日は買い物と食事の支度は私の役割になる。また子供と一緒に長時間遊びに出かけることも多い。また子供のバイオリンの自宅練習、日々の学校の宿題は母親担当で、それ以外の勉強面、長期休みの宿題は父親担当になっている。作業的な役割分担はほぼ固定化されている。正直、平日よりも休日の方は体力的には負担がある。 勉強や習い事を含めて子供に身に付けてほしい技能を選定と管理することは親の役割であることは間違いない。このための手段は言って聞かせて上手く誘導することが主になる。そのため言うことを聞かないことや反発することもある。 最近はテストの点数や身に付ける技術とか分かりやすい認知能力に対して、その下を支える非認知能力という

40代半ばの心境 余生の一歩手前

 45歳になった。日本人男性の平均寿命が80歳ということなので、この基準からすると半ば過ぎている。これからは医療技術の発達で人生100歳時代と盛んに言われていて、それからすると半ば一歩手前。間をとってちょうど折り返し地点なのかもしれない。今の心境を一言で表すと「余生の一歩手前」だろうか。あと数年したらいつ死んでも人生にさほど未練はないと思っている。 一人息子は小学校低学年。成人の半分に達していない。人格の土台はだいぶできあがってきていると感じているが、未だに両親にべったりで自立はまだ先。休日はまだまだ親子一緒に遊んでいる。もし今私がいなくなったとしたら経済面はとりあえず置いておいても家庭教育面で正直不安はある。だけど小学校を卒業し中学生になれば親子ででかけたり遊んだりすることもだいぶなくなって友人関係が中心になっているはず。寂しいことであるけどそうでないと困る。その頃になれば私がいなくなったと仮定しても大丈夫かなとは思う。この意味で息子が小学校卒業までが余生の「一歩手前」の部分になる。実際には父親としての教育的、心理的役割の他にも家庭の財布という経済的役割もある。あくまで心情的な仮定の話として。 生き物は配偶者の獲得、子育て、つまり自分の遺伝子を残すことに多大なエネルギーを使う。子を残して力尽きたり自らの亡骸を子の餌にする種もある。この観点からすると、子育ても先が見えた時点でそれから先は明らかに「余生」だと言える。余生というのは必須のことは終えておまけという意味。ちょうど今の心境と重なる。 結婚前後からこれまでが人生で一番読書の密度が高い時期だった。恥ずかしながら学生のときよりもずっと。結婚前は理系の本が中心だったけど子育てを機に教育関係、そして哲学、社会学、心理学、そしてマインドフルネスと広がっていった。今は人生において大事なもの、不易な部分は分かってきたと思っている。読書の学びに終わりはないしむしろ終わりになった気になってはいけない。変化の部分は人によって場合によって違う。その程度も違う。余生でもその調整は続く。 会社生活の方はこの年齢になれば先がほぼ見えている。今後も技術者として目の前のしごとに懸命に取り組むことは変わらない。幸いなことに自分の持っている力を活かすことができている実感はある。65歳まで再雇用制度はあるけど、気分も変えたいし定年(もしくはその前)

自分の構成要素としての読書履歴

例えば就職のために履歴書を書く。そのときに過去に所属していた学校、団体を埋めていって特技も書かなくてはいけない。もし資格があれば行数が稼げる。転職の場合は関わったプロジェクト単位で書いていく場合もある。 人によってスラスラと書けて誇らしげになる場合もあるし、逆に行数が少なくひねり出すのに苦労するかもあるかもしれない。いずれにしても埋めた履歴書は一面的とは言えその人のことが分かるものになる。書いた本人にとっては改めて「自分」というもの、つまりアイデンティティの再発見に繋がる。履歴書を書くというのは滅多にすることではないし、私も転職の際に書いたときはなかなか新鮮な気持ちになった。 履歴書で分かることは表向きな面が強いけど、内面的な構成要素を知るためのとても有効な方法の一つが読書履歴を眺めることだと思う。例えば個人的な本棚を見れば履歴書とは違う意味でその人の関心事、言い換えればその人の「構成要素」が分かる。これは他人を知る場合と自分のことを改めて知る場合の両方に当てはまる。ここでは自分自身を知ることについて書く。 自分の本履歴を知る最初の手段は部屋の本棚だ。だけど棚には時間軸の情報は含まれていないし、各本の重みについてもわからない。図書館を頻繁に利用する場合は、家の本棚の内容は履歴のごく一部でしかなくなる。つまり情報がだいぶ欠落する。 家の本棚の場合は、整理の際が自分を見直すよいきっかけになる。例えば本棚のスペースを限定するか100冊など上限を決めておき、定期的に断捨離すればその度に自分の現在の関心事、価値観と向き合うことになる。 他には長期間過ごすネットのない島に持っていきたい本を選ぶという話もある。リュックに入る程度なのでせいぜい10冊程度になるだろうか。仮想的な取り組みだけどこれをすると大事な本がさらに絞られる。 前に「読書メーター」というオンラインの読書日記でありSNSのことを書いた。これを続けていれば実際の本棚にはない登録日として時間情報も残るし、レビューも書いておけば各本の重みもわかる。読んだ本をその度に登録していくことは必要だけど、慣れてくれば感想を書くことは楽しくなるので手間とは思わなくなる。 読書メーターの場合は、年末に一年に読んだ本の「おすすめランキング」というのを作成し他人に公開する機能がある。この作業を毎年するのが楽しみになっている。これは「本棚」

親子で取り組まなくてはいけない読書

 私自身は未成年の頃の読書を振り返ってみると、読むと言えばまずは漫画、たまに推理小説であって、それ以外は中高時代は学習参考書で大学時代も理系の専門書だった。読む範囲がとても狭かった。量にしてもそこそこ読むけど読書好きというレベルではなかったことは間違いない。 社会人になって、色々と壁に当たったり社会のことに疑問を持ち始めると、ようやく専門以外の本を読み始めるようになる。それから自分のこれまでの視野の狭さを知り、もっと早くから読んでおけばと思うことになる。 我が家を含めてほとんどの家庭がそうなのだろうけど、子供は年齢が上がるに連れて親の言うことを聞かなくなってくる。特に親の人生論などを語ってもまず聞き流してしまうだろう。子供にしっかりとした軸のある考え方を身につけてもらいたいと思うなら、それを親が語るのではなく自らその考え方に辿り着いてもらうしかない。 そうだとすると、親にできることは子供に読書習慣を身につけてもらうことだ。できればノンフィクションの内容の。読書習慣が軸のある人間になるための必要条件だ。逆に言えば親にはそれしかできない。ここでは軸のあるということを試行錯誤のうえで辿り着いたぶれない考えを持っているという意味合いで使っている。しかし、子供が何か軸のある考えを身につけたとしてもそれは、親が思っているのと違うものかもしれないが。 読書には人間としての軸をつくることが長期的効果だとすると、短期的には語彙力や国語力、ひいては学校の成績が上がるという狭い意味での教育効果ももちろんある。どちらかと言えばそちらの方が注目されやすいかもしれない。だが、なぜ学校でいう国語力が必要かと言うと、多くの本を読めるようになり自分の軸を作り、(否定ではなく)批判的に考えられるようになるためのはずだと思う。 子供が読書習慣を身につけるために親ができることは、家庭全体を読書することが当たり前にすることしかない。そのような家庭の空気をつくること、これ以外にない。幼児期からの絵本の読み聞かせから始まり、定期的に一緒に図書館通いをして一緒に本を選ぶ。そうして家庭内で親が本を読む姿を子供が当たり前と思うようになる。 他に必要なことはテレビやスマホなどの脳にとって敷居の低く流されれやすいメデイアをなるべく制限することだと思う。両親が本を読まずにテレビやスマホばかり見ていたら子供が本を読もうとする

女の子がよかった、らしい

 「女の子がよかった!」「女の子がよかった…」、これがここ数年の妻の口癖の一つだ。我が家は息子が一人の3人家族なのだ。100%本気でいうわけではなさそうだが、ある程度は切実にこの言葉を発しているように見える。 理由の一つに、妻にとって息子(多分、男の子全般)の生態が理解できないということがある。妻自身の子供の頃の行動と違いすぎるということだ。現在小学校低学年だが、同じことを何度言っても聞かない、散らかす、家の中でも動き回る、高いところに上る、服をすぐ汚す。よく言えば「わんぱく」なのだが。 また、おもちゃ、本、テレビの趣味も理解できない。特にウルトラマンが怪獣と戦うものとか。さらには行動様式がだんだん父親の私に似てきているのが特に気に入らないらしい。私の同じ年齢の頃を思い返してみると似たようなものだったので男の子はこんなのものと思えるが、妻にとって男の子は宇宙人に見えるのだろう。 息子がこのような状態の時に、他所の大人しそうな女の子を見ると最初の言葉が特に頭を過るようだ。女の子なら話が通じて分かりあえる、服も男の子は種類が本当に少ないが女の子は可愛いのがいっぱい、一緒にショッピングに行ってお茶できる、さらには夫である私の悪口も一緒に言って結束できるとも言っている。だけど女の子だと外で一人で歩かせるのが心配で仕方がないだろうから、その点だけは男の子でよかったとは言っている。 外で親子を眺めるていると、幼児期は男女の違いはあまりなさそうだけど、子供が大きくなるにつれて変わってくる。小学校高学年、中学生以降だと女の子は母親と一緒で、父親と2人というのは街中でほぼ見ない。妻の言っている女の子の方が仲良くできるのもその通りだろうけど、一方ではそれは理想論でそう絵に描いたようにうまくはいかないだろうとも思う。あまり母親の理想を押し付けすぎると反発するかもしれない。 こう子供の性別で愚痴を言えることはありがたいことだと思う。子供が無事に今ここにいるだけで十分なことで、それに比べたら性別は些細なことなはず。おそらく妻もそう思っているはず? 関連記事 夫婦関係の標準とは

Amazonレビューによる書評

 本を選ぶ場合に、読書メーターでのフォローしている方々のレビュー投稿やAmazonレビューも自然と参考にしている。 読書メーターとAmazonレビューの総数はある程度比例している。なので、読書メーターの投稿は少ない(数件)のにAmazonレビューの方が圧倒的に多い(数十件)場合、そのAmazonレビューはさくらによるものの可能性が高い。実際に読んでみるとさくらっぽいレビューはすぐ分かるものだ。大抵の場合はそれほど長くない文章で不自然に褒めちぎっている内容が続いている。 読書メーターの投稿は最大255字なのであまり多くは語れない。読んでおもしろいレビューはある程度長いAmazonレビューの方が圧倒的に出会える。場合によってはその本の内容よりも参考になるものもある。 Amazonレビューを読む目的は2つある。1つ目は自分の本選びの参考にする場合。レビューは電子での「サンプル」または「試し読み」も参考になるのだけど、電子になっていないものもまだ多いので、そのときはレビューに頼ることになる。 本選びの参考のためにレビューを見る場合、だいたいはリストの上から眺めていって星5か4の肯定的な評価のものを参考にすることが多い。肯定的なものは基本的に著者の主張に賛成なので、その本の概要、内容を分かりやすく伝えてくれるものが多い。 レビューを読むもう一つの目的は、そのレビュー自体を楽しむことになる。その面白さは本に対する「批判」からくる。「否定」ではなく。これは自分が実際にその本を読んで内容がわかった後にする。レビューの投稿者が自分と違った箇所に目をつけ、違った視点で眺めていることがわかる。同じ本を読んでいるのに捉え方がこうも違うのかと思える、その多様性がまず面白い。また、その本の内容を超えた知識を披露して反対意見を述べているものも参考になる。それが妥当なものかどうかは自分自身で吟味しなければならない。 レビュー自体を読む目的のときは星の少ないレビュー、すなわち星1〜3のものから先に読んでいくことが多い。批判的なレビューはその本の主張に部分的に反対しているものが多いわけで、その部分にこそ投稿者の個性が入りやすい。 だけど、星1のものは批判ではなく根拠の書いていない、ただ気に入らないだけのような感情的なものも目立つ。ここでも批判的レビューは見かけるけど割合からいえば根拠のない感情的なレビ