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10月, 2021の投稿を表示しています

女の子がよかった、らしい

 「女の子がよかった!」「女の子がよかった…」、これがここ数年の妻の口癖の一つだ。我が家は息子が一人の3人家族なのだ。100%本気でいうわけではなさそうだが、ある程度は切実にこの言葉を発しているように見える。 理由の一つに、妻にとって息子(多分、男の子全般)の生態が理解できないということがある。妻自身の子供の頃の行動と違いすぎるということだ。現在小学校低学年だが、同じことを何度言っても聞かない、散らかす、家の中でも動き回る、高いところに上る、服をすぐ汚す。よく言えば「わんぱく」なのだが。 また、おもちゃ、本、テレビの趣味も理解できない。特にウルトラマンが怪獣と戦うものとか。さらには行動様式がだんだん父親の私に似てきているのが特に気に入らないらしい。私の同じ年齢の頃を思い返してみると似たようなものだったので男の子はこんなのものと思えるが、妻にとって男の子は宇宙人に見えるのだろう。 息子がこのような状態の時に、他所の大人しそうな女の子を見ると最初の言葉が特に頭を過るようだ。女の子なら話が通じて分かりあえる、服も男の子は種類が本当に少ないが女の子は可愛いのがいっぱい、一緒にショッピングに行ってお茶できる、さらには夫である私の悪口も一緒に言って結束できるとも言っている。だけど女の子だと外で一人で歩かせるのが心配で仕方がないだろうから、その点だけは男の子でよかったとは言っている。 外で親子を眺めるていると、幼児期は男女の違いはあまりなさそうだけど、子供が大きくなるにつれて変わってくる。小学校高学年、中学生以降だと女の子は母親と一緒で、父親と2人というのは街中でほぼ見ない。妻の言っている女の子の方が仲良くできるのもその通りだろうけど、一方ではそれは理想論でそう絵に描いたようにうまくはいかないだろうとも思う。あまり母親の理想を押し付けすぎると反発するかもしれない。 こう子供の性別で愚痴を言えることはありがたいことだと思う。子供が無事に今ここにいるだけで十分なことで、それに比べたら性別は些細なことなはず。おそらく妻もそう思っているはず? 関連記事 夫婦関係の標準とは

Amazonレビューによる書評

 本を選ぶ場合に、読書メーターでのフォローしている方々のレビュー投稿やAmazonレビューも自然と参考にしている。 読書メーターとAmazonレビューの総数はある程度比例している。なので、読書メーターの投稿は少ない(数件)のにAmazonレビューの方が圧倒的に多い(数十件)場合、そのAmazonレビューはさくらによるものの可能性が高い。実際に読んでみるとさくらっぽいレビューはすぐ分かるものだ。大抵の場合はそれほど長くない文章で不自然に褒めちぎっている内容が続いている。 読書メーターの投稿は最大255字なのであまり多くは語れない。読んでおもしろいレビューはある程度長いAmazonレビューの方が圧倒的に出会える。場合によってはその本の内容よりも参考になるものもある。 Amazonレビューを読む目的は2つある。1つ目は自分の本選びの参考にする場合。レビューは電子での「サンプル」または「試し読み」も参考になるのだけど、電子になっていないものもまだ多いので、そのときはレビューに頼ることになる。 本選びの参考のためにレビューを見る場合、だいたいはリストの上から眺めていって星5か4の肯定的な評価のものを参考にすることが多い。肯定的なものは基本的に著者の主張に賛成なので、その本の概要、内容を分かりやすく伝えてくれるものが多い。 レビューを読むもう一つの目的は、そのレビュー自体を楽しむことになる。その面白さは本に対する「批判」からくる。「否定」ではなく。これは自分が実際にその本を読んで内容がわかった後にする。レビューの投稿者が自分と違った箇所に目をつけ、違った視点で眺めていることがわかる。同じ本を読んでいるのに捉え方がこうも違うのかと思える、その多様性がまず面白い。また、その本の内容を超えた知識を披露して反対意見を述べているものも参考になる。それが妥当なものかどうかは自分自身で吟味しなければならない。 レビュー自体を読む目的のときは星の少ないレビュー、すなわち星1〜3のものから先に読んでいくことが多い。批判的なレビューはその本の主張に部分的に反対しているものが多いわけで、その部分にこそ投稿者の個性が入りやすい。 だけど、星1のものは批判ではなく根拠の書いていない、ただ気に入らないだけのような感情的なものも目立つ。ここでも批判的レビューは見かけるけど割合からいえば根拠のない感情的なレビ

ブログ画像の違和感

 色々と見ているブログでまず目立つのが過剰な広告。広告は最近は文章の途中で大きく割り込むパターンが増えてきて非常に読みづらい。スクロール途中で誤ってクリックしてくれるのを願って配置しているとしか思えない。そういうブログは早々と退散したいのだけど何しろ今やや検索の上位でヒットする多くのブログがそのレイアウト。そうなると検索ネットサーフィンする時間が減っていく。自分にとって良いことなのか悪いことなのか。 広告の方は効率的にクリックしてもらうことが理由なので一応は理解できる。しかしもう一つ目立つのが多くのイメージ画像。画像を配置したほうが記事へのクリック率が高まるというSEO的な有効性が確かに言われている。文章が主体の記事でも補足的な画像があったほうが分かりやすい場合があるのは間違いない。それでも画像なんて特に不要と思える記事にまで無理やり画像を入れているものがほとんど。さらに大抵はサイズが大きく一つにページに何枚も挿入されている。その分スクロールする手間も増える。 特に違和感があるのが外人を使用している画像の数々。著作権フリーの画像が日本人のものは少ないことが理由だろうけど、そこまでして画像を入れなくてはいけないのだろうか。このような不必要な画像を多用することは、逆に記事の質を損ねているとしか思えない。本来の記事全体の質を上げる目的のための手段の一つとしての画像使用のはずが、とにかく画像を入れなくていけないとそれ自体が目的化している。 Webページ評価のアルゴリズムで、その記事に合っている画像かどうかを区別することはAIが進んできた今でも難しいと思う。でも、そのうちできることを期待している。

教育とは自発と他律の折り合いをつけて自律に誘導すること

教育は意識的なものとそうでない無意識的なものにまず分けることができる。無意識的な教育とは人々、例えば親子、友達などが一緒に過ごすなかで、お互いに影響を与えあっていることを言う。人間は他人の存在を認知するだけで何かしらの影響を受ける。一方的に影響を与えるというのは基本的にない。影響を受けるということは多かれ少なかれその人に変化が見られるということだからだ。他人の影響によって起こる変化が広い意味の教育になる。狭い意味のものは学校での先生から生徒への授業や指導、そして家庭での育児などで、普通に教育と言うとこの狭い意味のものを指す。 意識的な教育においては、親・先生は何かしらの模範を持っていて、子供・生徒をその模範に当てはめようとする。例えば、他人に危害を加えるような行動は抑制しようとするし、勉強や運動は望ましいこととして推奨する。 教育で一番望ましい形は、子供が自発的に模範的な行動をしてくれることだろう。もし何も言わずに子供が自ら模範的な行動をしてくれたとしたら、それは無意識的な教育の結果であって、周囲の人間がその模範的な行動を実践していてその子もその行動を自発的に真似ることによる。この場合は親・先生はその模範的な行動をさらに推奨すればよく、教育的にはとても楽だ。 そのような理想論ばかりではないので、大抵は、注意または強制的な介入で子供の行動を変化させなくてはいけなくなる。この場合もまずはその子供以外の周りの人間が身につけさせたい模範的な行動を実践していたらその行動を推奨しやすい。周りの大半がやっていることは正義、正義だから大半の人がやっている、と。 その注意、介入による行動は、その子にとっては自分の直接的な意思ではなく、他人の判断基準に従ったものだから他律となる。親・先生にとってはもちろん注意、介入は一時期なもので、最終的には模範的な行動は、その子が自律的に行ってほしい。そしてそれが教育の部分的なゴールとなる。 親・指導者は、全てが他律的な指導でうまくいくとは通常は考えない。本人の意識に逆らうことばかり言えば、その子はストレスがたまり反抗するだろうし、指導する側もさじを投げるだかもしれない。なので、まずは周りの人間がその模範的な行動をしている環境を用意する必要がある。ある程度は自発的にその行動を真似るよう促して、できるだけ直接的な指導、すなわち他律を少なく抑える。そして

子供にとってのプログラミング

 習い事でプログラミングが流行っている。近所に教室も増えてきた。単なるプログラミングではなくロボット工作との組み合わせが目立つ。息子も小学校からChromebookが貸し出されて授業で少ない時間だけどScratchというビジュアルな言語で短い時間だがプログラミングを体験したようだ。 私自身がソフトウェアエンジニアなので日常的にプログラミングをしている。初めてプログラミングに触れたのは大学に入ってからでこの分野に関わって20年近くになる。なのでプログラミングその周辺はよくわかっているつもり。 プログラミングとはPCを使ってキーボードを使ってコーディングすることだと思っていたけど、最近はピタゴラスイッチみたいに、パーツを組み合わせて仕掛けを作るおもちゃもプログラミングを謳っている。明らかにブームに便乗だけど本来のProgrammingの意味からするとこれも間違いではない。 いつ頃から何がきっかけなのか正確にはわからないが、おそらくアメリカ発のSTEMやSTEAM教育(Science, Technology, Engineering, Art, Mathematics)が言われだし、その後にAIブームになってIT・AI人材が不足と騒がれはじめたあたりだろうか。 プログラミングをする効果を大きく3つあると思う。 1つ目の論理的思考。プログラミングは曖昧さが許されない。完全に言語のルールの則って記述しないとエラーになる。そこが数学に通じるところになる。考えてコーディングしていくことは論理的思考そのものだ。 2つ目はソフトウェア、IT分野の知見。もしもこの分野で仕事をするなら覚えるべきことがたくさんある。理想的にはプログラミングだけでなく、OSの深い部分、さらにはハードウェアの知識も必要になってくる。例え技術者にならなくてもこれだけ周りに囲まれているものについてある程度は知っておいて損はない。 3つ目が試行錯誤と創作の体験。プログラミングが組み立て工作や電子工作などと比べての利点はすぐやり直しがきくところ。基本的にものが壊れるということがない。いくらでも試行錯誤を繰り返すことができる。私としてはこのことがとても大きい。そして作ろうと思えばお金もかからずアプリ、ゲームなどを無制限で作ることができる。 小学校で習うプログラミングは時間が短すぎて何かを身につけるという効果はほほないと

思想と哲学の違い

 「思想」と「哲学」はよく同じ文脈で使われているように見える。2つとも「考え」のお硬い言回し。 この2つの違いは「思想」は既に出来上がった固定的な(傾向のある)考え方で、「哲学」はその思想に辿り着くための試行錯誤の改造の過程を指す(傾向がある)と思っている。 「哲学する」「哲学をする」という哲学の動詞の使い方は見ることがあるけど、「思想する」は見たことがない。やっぱり「思想」は「考え」で、哲学は「考えること」という意味合いになる。ここから哲学の方がアクティブなイメージがある。 でも哲学も「考えること」だけでなく「考えた結果」そのものを指すこともよくある。人生哲学とか経営哲学とかいう言い方をする。これらは人がこれまでの人生、または経営の中で辿り着いた考え方、または行動原理を指す。上の考えからするとこの場合は「哲学」よりも「思想」の方が意味からすれば適切ということになるけど、「人生思想」という言い方は聞いたことがない。 思想も哲学もただ「考える」「考え」でなく「深く考える」「深い考え」の意味を含んでいる。熟考でもいい。なぜ深く考えるのかというと、今までの考えでは通用しない場面に遭遇したから。それを変えなくていけないと感じたから。そして今度同じような場面に遭遇しても大丈夫なようにするため。これまでの考えで特に問題は起きなかったら人は深く考えない。 この新しく考えだしたときに分岐点がある。何か終局的または至高の考え方があると思ってそれを目指して今考えているか、それともそんなものはないと思うかだ。「思想」は体系的でまとまった結論的な考えのイメージで、「哲学」はそこに至るまでの過程を含めたものというイメージがある。「思想」は終わりを目指して考えるけど、「哲学」は生きている限り考え続けることで、言い換えれば生きることそのものになる。 関連記事 哲学者への道

マシュマロテストと自制心

マシュマロ・テストという、教育関連、特に非認知能力について扱う書籍などでは必ずといって出てくる有名な心理学のテストがある。 オリジナルは1960年代に4歳児を対象にして試験者が被試験者の幼児に「目の前の1個のマシュマロを15分間食べるのを我慢したら2個あげる。」と伝え、その子が我慢できるのかをみるテスト。そしてこのテストでマシュマロを我慢できたかの可否、すなわち、この年齢で目の前の欲求を抑制して、目の前の小さな利益よりも将来の大きな利益を選ぶことと、将来の学歴や年収などのいわゆる社会的成功とよばれるものとの相関が大きかったことから一躍有名となった。 しかしその後、より大規模の幼児を対象にした試験でマシュマロを1個または2個選んだ結果よりも、家庭環境(親の年収と学歴)のほうが子供の社会的成功との相関が大きいという研究結果が発表された。つまりマシュマロを1個選んで目先の利益を取っても親の学歴が高い子の方が、マシュマロを2個選んだけれど親の学歴が低い子よりも、社会的成功に結びつきやすいということになる。この報告ではマシュマロ・テストの結果は限定的とされている。 この追試験でマシュマロ・テストの神秘性は薄れただろう。だけど、まったく無意味になったわけではない。家庭環境と子供の将来との相関関係、マシュマロ・テストはその相関の解明の橋渡しとして使える。 4歳の時点でマシュマロを1個選ぶ子と2個選ぶ子の違いはどこから生じるのかを考えてみたい。 まず、子供に試験者が伝えた約束の言葉「我慢したら2個あげる」。そもそも子供がこの言葉を信じるかどうかがテストの前提にある。普段から人の言うことが信用できない、大人の言うことと実際の行動が違うことばかりのような環境で育っていて人間に対する信頼感がないとしたら、目の前の利益は取られる前に自分で取ってしまうのが合理的な判断になる。 2つ目に、子供にストレスが溜まっていかどうか。大人でも例えば仕事が忙しく気持ちが余裕がないときは、頭の中で立ち止まって考えることなく甘いものや酒に対する欲求に抗えなくなる。幼児もこれまでに欲求が十分に満たされないで育ってストレスが過剰な場合、常に感情がそのまま出やすい状態となっている。 3つ目として、子供の早熟性、成長の早さがある。このテストは4歳という微妙な年齢だから成り立つテストだ。年齢があがるほど、先送りが得とな

スマホ中毒と読書中毒

 例えばドラえもんの話。のび太が成長して一人前になってしまえばドラえもんは未来に帰ることになるので、番組的(漫画的)にのび太のドラえもん依存は終わらせることができないという事情がある。とはいえ、ドラえもんがのび太を助けるために未来の道具を毎回ポケットから出している限りのび太は真に成長することはないと視聴者(読者)の多くが思うだろう。 基本的に便利な道具に頼るようになれば頭脳を含めた身体能力のどこかが衰えやすくなる。自動車は分かりやすい例だろう。今の日本では田舎ほどどこへ行くにも自動車が必要になるので歩く距離が短くなり足腰が衰えやすい。便利な道具によって浮いた時間を使って、以前は生活で使っていた身体機能を意識的に使用することによって衰えを防止していかないのは皮肉なもの。 さて、自動車の次に革命的に現代人の能力を奪っているのはスマホだろう。ワープロ・PCの時でも例えば漢字の自動変換を使っていくことによって、いざというときに漢字がかけなくなることがあるのは私を含め多くの人が体感している。スマホはそれよりさらに私達の記憶や思考の肩代わりをしてくれる。 スマホは単なる記憶・検索デバイスではなく、ソーシャルネットワークの機能が充実して自分に対するメッセージなどが次々と来るフォードバックがあるためそれが気になって離れられなくなる。PCは家・職場を離れれば開くことはできなかったが、スマホはいつでもどこでも一緒にいることができるのでさらに恐ろしい。片時も放すことができず、隙間時間があれば自分へのフィードバックや情報をチェックせずにいられなくなる。駅のホームでの待ち時間や電車の中だと今やほとんどの大人がスマホをいじっている。 私自身もスマホ依存症・中毒のことを知って、脱スマホまではいかなくともスマホの使用を減らそうとして一時的には成功したが、しばらく経つとまた使用時間が増えてきた。一度慣れるとそれから脱するのは本当に難しい。 スマホが人の考えることを肩代わりして、情報を常に送り続け、脳の考える力と休む時間を奪っているということを知ってから、実は読書も少なからず同じことが当てはまるのではと考えるようになった。ただひたすら本を読んでいくのならネットサーフィンするのと同じだ。もし読書がスマホの電子書籍の場合はさらに似ることになる。私も知識を求めてただひたすら本を読んでいく時期があった。読んで

非認知能力とは健全な生活習慣と積み上げてきた経験

主に教育の分野で「非認知能力」という比較的新しい言葉がある。本のタイトルに入っているのもよく見かける。国語数学などの科目テストや知能テストなどで測れて数値で表せる認知能力に対して、簡単には測定できなくて数値化が難しい能力を表したものだ。 その非認知能力が何を表しているのかは本や人によってまちまちだ。例えば、やり抜く力、自制心(セルフコントロール)、粘り強さ、忍耐力、復元力(レジリエンス)、計画性、創造性、協調性、コミュニケーション能力、自尊心、自己肯定感など語句がちょっと調べると挙がってくる。 これらを能力を全て持っているとしたら完璧人間になる。 非認知能力というのは人間としての総合力そのものを指すことになる。 この非認知能力のリストを整理しておきたい。 この語句の中だと「やり抜く力」は本のタイトルにもなっているし特に有名だが、なにかをやり抜くというのは結果を出すということであり、結局は総合能力が高いというそのものになる。 自制心とは、未来の大きな利益を見据えて目先の欲求、小さな利益を我慢することだ。計画性も自制心がないと成り立たない。計画性は当初の計画その通りに実現して初めて評価される。協調性も先を見据えて自らを律して他人に合わせることだからほぼ自制に近い。 復元力(レジリエンス)とは、失敗したときにめげないで立ち上がる力のこと。これは「やり抜く力」の大部分を支える要素と言えるかもしれない。一つのプロジェクトでの諦めないで再チャレンジする力なら、これまでの人生でやり遂げてきた経験値というものが大きい。今までやり遂げてきたというのだから、今回もできるに違いないと思えるわけだ。自尊心、自己肯定感というものもこの経験値とほぼ同一で、実績のある自分を信用できるというわけだ。 結局は、非認知能力とは最初のリストから整理すると「自制心、セルフコントロール」と「復元力、レジリエンス」の2つに集約するのが適切かと考えている。この2つももう少し踏み込んでみたい。 自制心も突き詰めればその人の生活習慣に大きく依存している。自制の大きな障害になるのがストレスで、例えば忙しくてストレスが溜まると、頭では分かっていてもついつい甘いものを食べすぎてしまったりする。様々な研究から運動、食事、睡眠、すなわち生活習慣が感情、ストレス、脳の働きに大きな影響を及ぼすことがわかっている。 適度な運動をし

紙と電子書籍の違いと本棚の役割

 まずは紙の書籍と電子書籍について私が感じている利点・欠点について。 私が最も読書をするのは通勤時の電車内。立って読むこともある。この点からすると電子書籍はとても便利。Amazon Kindleを使っているが軽いし端末内に何冊でもデータを入れておくことができる。スマホより大きいがタブレットよりは小さく、片手で持って指タッチでページをめくることも問題ない。文字の可読性は問題ないけど図や絵は細かい場合が見づらいところは不便な点。またページをパラパラとめくって全体を見渡したい場合はやっぱり紙の書籍の方に利がある。 家の中の読書では持ち歩く必要がないので紙の方がよいけど、持ち歩いて電車内で読む分には電子の方が便利。しかし本はまず図書館にある本は借りることを優先しているので、紙の本を鞄に入れて持ち歩くこともまだまだ多い。図書館に置いてなかったり借りて読んでみて、これは持っておきたいと思った本は購入している。その場合は電子があれば電子を優先して、ない場合は紙を買っている。 以上は読書の快適さの話だけど、紙と電子のそれ以外の違いは譲渡や共有できるかどうかだ。電子書籍は現状の仕様ではそれができない。電子書籍は「所有」ではなく「データアクセスの権利」という扱いになっている。この点では紙の本の方が完全に優れている。だけど紙の塊は経年劣化していく。特にカビに対する管理はなかなかやっかいだ。ここでも利点欠点がそれぞれ裏返しになっている。 Kindleごと他人に貸すことはできるけど、これはスマホを貸すことに近いもので抵抗がある人も多いはず。誰でもあまり他人に見られたくない本があるのでは。少なくとも私はある。アカウント間の譲渡を認めるとそれはシェアでありその分売上は落ちるので、今後も実現することはないはず。 電子は個人の端末前提なので他人に見られたくないデータをいくらでも持つことができる。紙の本でも自分の部屋の本棚で誰にも見せることがない場合もあるけど、少なくとも家族、または家に来た友人が見る場合など、誰でも多かれ少なかれ他人に見られることを意識した本の構成になっているのではないだろうか。それは見られたくものを排除という消極的なものから、自分の趣向を見せるというブランディングのものまであるだろう。それは意識的にせよ無意識的にせよ。 電子の端末は隠された収納で言わば裏の顔で、実物の本棚は単なる収

自立、自律、自制、自主、自発

 「自」がつく2文字の言葉を5つほど並べてみた。いずれも「自分で〜する」という意味合いになる、主に教育関連の本で出てくる語たち。共通の意味合いもあるし微妙に異なりもする。ここでは私が感じている意味をまとめてみる。 「自立」と「自律」は同じ読み方。「自立」は自ら立つということで、他の助けなしで何かができるということ。「自律」は自らを律するということで、自分の行動基準を持ちそれに当てはまるかを判断しながら行動できるということになる。自立は一人前として通用する能力面が強調されて、自律は自らの意思で行動の面が強調されている。 「自立」と「自律」はうまい具合に意味合いが違うため、2つの「じりつ」セットで学校教育の目標によくあげられる。社会人としての仕事をこなすだけの力を身につける自立と、自ら考えて行動し周りの人に迷惑をかけずに模範的であるための自律。教育面でいえば「自立」は学校教育の目標であり卒業までに達成すればよく、「自律」は学校生活中にも生徒にもできるだけ求められる性能ということになるだろう。この2つだけでも多くの人が納得できる無難な教育理念だと言える。 「自制」は自分を制御するの意味となり、その制御の結果として自らの基準に当てはめる行動となる。「自律」と重なる部分も多いが、その行動のために邪魔となる衝動を対処することが強調されているイメージだ。 「自主」は自分が主となって行動するとなり、自律と似た意味となる。違いは、自主は「自分自身で」ということが強調され、それと比べると自律は自らの「行動を判断する」という面が強調されている。 「自発」も自分から行動すると意味で「自主」と似ている。しかし「発現」の発なので、自然と湧き上がって行動する、言い換えれば、他人に強制されず「自然と行動する」という面が強調される。 漢字の意味から意味の違いをやや強引にひねり出してみたが、今度はその意味をもう少し掘り下げてみたい。特に「自律」。自律はこの5つの中で唯一「他律」という対義語がある。他律は他人から言われて、または強制されて行動するという意味となる。また他人が関与していなくとも衝動的に行動してしまう場合や、何も考えずにただ流されて行動する場合も他律に含めることがある。 自律の本来の意味は自分の行動を「自分の基準」に当てはまて判断することだけど、社会で通用する模範的な基準でなければ「自律」し