教育とは自発と他律の折り合いをつけて自律に誘導すること

教育は意識的なものとそうでない無意識的なものにまず分けることができる。無意識的な教育とは人々、例えば親子、友達などが一緒に過ごすなかで、お互いに影響を与えあっていることを言う。人間は他人の存在を認知するだけで何かしらの影響を受ける。一方的に影響を与えるというのは基本的にない。影響を受けるということは多かれ少なかれその人に変化が見られるということだからだ。他人の影響によって起こる変化が広い意味の教育になる。狭い意味のものは学校での先生から生徒への授業や指導、そして家庭での育児などで、普通に教育と言うとこの狭い意味のものを指す。


意識的な教育においては、親・先生は何かしらの模範を持っていて、子供・生徒をその模範に当てはめようとする。例えば、他人に危害を加えるような行動は抑制しようとするし、勉強や運動は望ましいこととして推奨する。


教育で一番望ましい形は、子供が自発的に模範的な行動をしてくれることだろう。もし何も言わずに子供が自ら模範的な行動をしてくれたとしたら、それは無意識的な教育の結果であって、周囲の人間がその模範的な行動を実践していてその子もその行動を自発的に真似ることによる。この場合は親・先生はその模範的な行動をさらに推奨すればよく、教育的にはとても楽だ。


そのような理想論ばかりではないので、大抵は、注意または強制的な介入で子供の行動を変化させなくてはいけなくなる。この場合もまずはその子供以外の周りの人間が身につけさせたい模範的な行動を実践していたらその行動を推奨しやすい。周りの大半がやっていることは正義、正義だから大半の人がやっている、と。


その注意、介入による行動は、その子にとっては自分の直接的な意思ではなく、他人の判断基準に従ったものだから他律となる。親・先生にとってはもちろん注意、介入は一時期なもので、最終的には模範的な行動は、その子が自律的に行ってほしい。そしてそれが教育の部分的なゴールとなる。


親・指導者は、全てが他律的な指導でうまくいくとは通常は考えない。本人の意識に逆らうことばかり言えば、その子はストレスがたまり反抗するだろうし、指導する側もさじを投げるだかもしれない。なので、まずは周りの人間がその模範的な行動をしている環境を用意する必要がある。ある程度は自発的にその行動を真似るよう促して、できるだけ直接的な指導、すなわち他律を少なく抑える。そして、その模範的な行動をその子の習慣として身に付けさせて自律的に行うようにする。


まとめると、教育は人々が模範的な行動をしている環境を用意して、その中で子供が「自発的に」その行動を真似てくれるのがまずは理想になる。これがその子にとっては無意識的な教育になる。真似てくれない場合は直接的な指導が必要で、これは「他律」になる。これが意識的な教育になる。最終的には「自律して」模範的な行動をしてくれることが教育の部分的な目標と言える。


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