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9月, 2021の投稿を表示しています

教育上読書はよいけど漫画はどうなのか

 読書という行動は大人の趣味としても教育上の子供の活動としても、ほぼ無条件で良いものとされている。ビジネス本でも教養のための読書はたいていは含まれているし、教育本でも子育てにおいて読書好きにすることは必須の項目となっている。 教育においてなぜ読書が良いのかというと、まずは読書によって知識の幅が広がりそれが体験へと繋がり、さらに次の知識欲へとなるという「読書と体験の連動」効果。 読書→体験→読書→ …という流れだ。 そして本を読めば語彙力が上がり、国語をはじめ他の教科の学力向上に繋がるという狭い意味での効果もある。 読書も幼児期や小学校低学年くらいまでは絵本が中心になるだろう。絵本の読み聞かせも子育ての定番活動になっている。ここで問題になってくるのは漫画は良いのかどうなのかということだ。 私も子供の頃から漫画を多く読んできた。藤子不二雄から始まってドラゴンボールを中心としたジャンプ系漫画が子供の頃の思い出だ。息子も時を越えて藤子・F・不二雄の漫画を読んでいる。単純に面白いから読んでいる。読んでいる本人は教育的効果なんてどうでもいい。でも少しそこから離れて考えてみたい。 まず漫画と絵本の違いはというと、漫画はページ内が枠線でコマ割りしてページ内に絵による情報量が多く、キャラのセリフのふきだしで誰が発しているのかわかりやすい。絵本は基本的に全て一連の文章のみで状況説明を行う。だが、絵本でも部分的に漫画風にコマ割りされていたり、ふきだしがあるものも多いのでその境界は曖昧だ。 教育上の読書の目的の一つが語彙力や国語力の向上だとして、そのために絵本がよいのなら、漫画の方も問題ないと思う。だけど、もう一つの目的の「読書と体験の連動」でいうと違いがある。漫画を一冊読み終わると、それがきっかけにどんな次の行動に繋がるかというと次の漫画一冊という可能性が高いだろう。もちろん漫画でも例外があって漫画以外の行動に現れるものもある。現に息子も漫画の絵を描いたり漫画内のロボットの工作をしたりもしている。 絵本は物語の内容(フィクション)も多いが、それ以外のノンフィクションの内容、すなわち社会、生活、文化を教えるものもある。ノンフィクションの影響は、次の行動が次の読書へ向かうだけでなく自分も試してみよう、行ってみようなど読書以外の行動に向かう可能性が物語より高い。そこが物語とノンフィクションの大

自分で考える力を身につける子育て

 「自分で考える力」などは特に教育の分野で常々言われている言葉だと思う。学校、組織の教育目標の一つに入っていたり、子育て・教育本でも頻出している。時代、地域関係なく必要な力だというのは間違いない。 ここでは家庭教育を念頭に置くと、子供が考える力を身につけるために親が気をつけるべき点がとりあえず3つある。 1つ目は、子供に自由な時間を与えること。子供は自由な時間の中だと何をするかは自分の頭で考えて決めるしかない。とても単純だ。例えば子供の放課後の時間が全て習い事で埋まったりしたら自分で決めることは何もない。 2つ目は、子供になるべく消費する娯楽を与えないこと。こちらの方が難しい。難しいのでなるべくを付けている。「消費する娯楽」を具体的に言えば、主にテレビ、YouTube、ゲームなどの映像メディアなどだ。これらの娯楽は制作側がのめり込んでもらって時間を消費してもらうよう設計されている。それに乗っかることは製作者の意図通りの行動をすることになり、この場合は親の都合ではなく製作者に考える時間(と料金)を奪われていることになる。どのチャンネルを見るかどのゲームで遊ぶかの選択は「考える」というよりも「反応」しているという表現の方が適切だ。 これは極端な言い方で、全ての娯楽に当てはまるわけではもちろんない。例えばテレビ番組をきっかけになにかを思考し生活の行動が変わることもある。ゲームも例えば低レベルクリアのように制作側の意図を超えた頭を使う遊び方もできる。しかし消費する娯楽はただ中毒的にこちらの時間を奪われる可能性があることを留意しとかないといけない。それが中毒的かどうかは時と場合とその娯楽次第としか言えない。 消費の対義語は生産になる。消費する娯楽が考える力を奪うなら、考える力を養うのは何かを生産する作業になる。これは大体において当てはまると思う。絵を描く、工作などは子育て本でもよく奨められるよい例だ。 そして、3つ目は「考える力」というのは、単に頭だけの作業でないということだ。五感との連動を切り離して考えるべきではない。手、足、体全体を使う作業は脳と密接に絡み合っている。それらなくして健全な考える力は育たないと思う。この意味でも多くの映像メディアは眺めるだけで他の感覚を使用しない。絵描きや工作は複雑な手の運動を要求される。 まとめると、子育てで「自分で考える力」を身につけるな

メダカの個性と価値

我が家の鉢には少なくとも4種類のメダカが混じっている。 実は2回、それぞれ別のところから譲ってもらっている。 知り合いにもらって最初に家に来ることになったのが、いわゆる「普通」のメダカたち。少なくとも3色のメダカが混じっていた。おそらく黒メダカ(原種?)、オレンジのヒメダカ、そして白メダカ。中にはぶち模様のものもいる。元の飼い主さんは混じっていることは何も気にしていないようだった。 すぐに鉢を買ってベランダに置いてメダカたちを入れてしばらく元気で死ぬこともなかったのだが、ある日半数近くが突然死した。一斉なので偶然とは思えない。なぜかそのほとんどは白メダカだった。その前の日にベランダの工事で業者の人が入ってメダカの近くで作業をしたぐらいしか思い当たらないが、原因は特定できなかった。 この最初のメダカをきっかけに私もメダカのことを少し勉強した。そして今の時代は鯉や金魚のように様々な品種改良によって生み出された美しいメダカの種類があることを知った。今の「普通」メダカたちもそのまま子孫繁栄していってほしいと願いつつ、かつそのような美しいメダカも飼ってみたいと思うようになった。 その機会は突然訪れる。息子と一緒に近所を散歩していたら、玄関先に多くの容器に多様なメダカを飼育している家があった。どれもが本やネットで見た「普通」ではない光っていたり様々な模様を持っていたりする美しい種類のものである。2人でそのメダカたちを眺めていたらすぐにその家の方と知り合いになった。どの家もメダカ増えすぎ問題があるのだろう。できるだけ頻繁に誰かに譲っているとこのことで、知り合ったばかりの私達もどれでも好きな品種を頂けることになった。 そのときは一旦帰ったが、一応妻と相談し改めてこれ以上容器を増やさない約束で、新たな種類のメダカを迎え入れることになった。改めて見せてもらって息子と相談して決めたのは「夜桜」という小さい錦鯉が部分的に光っているようなきらびやかな品種だ。ネット販売で見ると買った場合は決して安くないメダカだ。 それからしばらく葛藤の時が始まることになる。時が経った今でも正直残っている。最初にもらった「普通」メダカと新たな「高級」メダカを同居させていいのかという葛藤である。夜桜を頂いた方は当然メダカに大きなこだわりがある。種類ごとに厳格に分けて飼育している。混じって交配してしまうとその子たち

メダカ増えすぎ問題

 メダカを飼う人がほぼ全て直面する課題の一つが増えすぎるメダカの対処だと思う。まだ一夏の経験しかない私でも産む頻度と量を見れば容易に想像がつく。 真っ盛りの真夏にはメスはほぼ毎日10個単位の卵を産んでいく。しかも通常はメスは容器に複数いることだろう。その卵を真面目に回収し稚魚を育てようと思ったらねずみ算も真っ青だ。しかも夏の始めに生まれたメダカは夏の終りには成熟し卵を産めるようにもなる。 私のような初心者はそのことがわかっていても回収して別容器に移さずにいられない。初心者ゆえに観察欲が旺盛なのだ。事実、稚魚の日々の成長を眺めるのはとても楽しい。稚魚を別容器に移すのは親メダカと同じ容器のままだと稚魚は親メダカにすぐに食べられてしまうからだ。メダカは餌と自分たちの稚魚の区別がつかない。 言うまでもないが、飼育のための容器を大きくする、または容器の数を増やすことはその場しのぎで根本解決にはならない。例え容器を増やせても、その容器の置き場には限界がありすぐにその時が訪れる。我が家の場合は、メダカ飼育を始めた時にベランダに置くために最初から容器は鉢一つと妻と約束した。(後に稚魚用の小鉢を横に置くことをしぶしぶ了承してもらったが。) 根本解決は単純で2つしかない。卵または稚魚を放置してそのまま親メダカの餌にする、または誰かにあげるかだ。ビジネスセンスがある人は販売もできるかもしれないが。自然の川、池に放すのは生態系を乱すため厳禁とされている。飼育用のほとんどのメダカは品種改良されたものでそれが野生の種と交わるからだ。 誰かに譲渡していくのもすぐに知り合いの伝手は尽きそうで、最終的には卵を回収しないで放置しかなさそうだ。そもそも閉じた生態系の構築を目指しているのでじきにそうなる予定ではいる。

哲学者への道

 「良い妻を持てば幸福になるだろうし、悪い妻を持てば哲学者になれる。」 ソクラテスの結婚に関する格言だけど、私が哲学の本を読みはじめたきっかけも結婚だったかもしれない。でも最初に言っておかなければならないのはうちの妻は決して悪い妻ではないということだ。上の言葉で間違いがあるとするなら、結婚したら多かれ少なかれ、意識的にまたは無意識に人は哲学者になると考えている。 人が哲学を始める条件として周りの環境が変化することが必要になる。何かしら変化することによって、これまで当たり前と思っていた価値観に初めて疑惑の目が向けられることになる。これは体験が伴っていなくても読書による知識だけでも起こりうるかもしれない。環境が変化してもこれまでの価値観が揺るぎない、または新しい価値観に手のひらを返したように切り替えられたら哲学をする必要がない。多くの場合は以前の価値観と新しい価値観の折り合いをつけなければならず、その思考過程が哲学というものだと思っている。 哲学の専門家は人類史を舞台にして価値観について考えるのだけど、一個人は自分の日常舞台にして考えることになる。技術が発達したり、移民が入ってきたり、またはコロナウイルスが流行することによって社会が大きく変わることをネタして考えるのが主に専門家だけど、結婚は多くの人が経験する最も身近な異文化交流であり生活環境の激変だ。 ソクラテス時代の古代ギリシャは、今の日本よりは男性優位の社会だっただろう。なので結婚しても男が価値観を変えずに済むことがあったかもしれない。それが「 良い妻を持てば幸福になるだろうし、」の部分になる。今の日本では完全ではないけどだいぶ男女平等が浸透しているので、格言はこう書き換えたほうがいい。 「結婚すれば誰でも哲学者になれる。」と。

夫婦関係の標準とは

 どの程度の夫婦の仲の良さ(悪さ)が普通になるのだろうか。定量化するとしたら、週にまたは月に何回喧嘩をするなどのアンケート結果でその平均や中央値といったところになるのだろう。 喧嘩といってもレベルがある。小言程度のものから離婚が見えているものまで様々だろう。まったく喧嘩はしなくても家庭内別居状態で実は喧嘩している状態がまだマシというものもある。 他の家庭の夫婦仲をなかなか観察する機会がない。直接は自分自身と両親しか知らない。女性なら主婦同士でこの辺を話題にすることは多そうだけど、男だとほぼ話題にすることがない。それでも本で読んできた知識や少ない聞いた話からすると、喧嘩をするのは普通であって妻は夫に対して常にイライラしているのも普通と言えるようだ。普通といっても少ないけど珍しくないという意味から半数以上まで幅があるのだけど、おそらく半数以上でないかと思っている。 この普通の状態の定義からすると我が家は普通になる。2人で一緒にいた場合、やっぱり妻は私に対してイライラしていないときよりもしている時間の方が長いかもしれない。私が気にしない細かいと思うことが妻にとっては細かいことではなく気になってしょうがないようだ。だいたいはよくそれが発端となって喧嘩になる。喧嘩といってもこちらはほぼサンドバッグ状態になって聞いているしかない。愚痴のシャワーを浴びる時間と言えるだろうか。 そもそも人間には女の方が男よりも詳細なことに気づくという性差が元々ある。それは種をばらまきたいために広く浅い目を持つ男と、我が子の質を高めたいために厳しく精査したい女の非対称性に由来している。なので男女が一緒に暮らしていたら女のほうが男に一方的に不満を募らせやすいのは避けて通れないことなのだろう。 不満を募らせるにしても、それを定期的に小出しに発散させるのと溜めてから一気に爆発させるのでは違う。間違いなく小出しの方が平和に近いと思う。幸いなことに我が家はこちらの型のようだ。一見平穏に見えてある日突然何かが起こる爆発型は考えただけで恐ろしくなる。 喧嘩をしていて私達はなかなかやばい状態なのかと思えることも時々ある。だけど妻は私に日常的に私以外の日々の不満を聞くことを強制してくるので、この点で頼られている?間は少なくとも最悪の状態ではないと思っている。 この記事では我が家の妻が悪者っぽい書き方に捉えられるかもし

メダカの飼育 - 閉じた生態系という目標

 この夏にメダカの飼育という新たな趣味が一つできた。知り合いの知り合いから息子がメダカをもらうことになった。だけど案の定というかすぐに世話は父親の役目となる。きっかけは息子だがすぐに自分の趣味となった。ベランダで10号の鉢(容量約10L)で飼育している。小学生の頃にも飼っていたけどよく覚えていないのでほぼ初めての感覚だ。 今ではその鉢を毎朝出勤前に眺めている。餌を与えてメダカの動きをただ眺めているだけでもなかなか飽きない。もらってすぐ卵を産んで隣に置いた小さな鉢(どんぶり)に分けている針子(稚魚)の日々の成長も楽しみになっている。 正確には眺めているのはメダカだけじゃない。水草が日々伸びていく様子、鉢の壁面につく藻を食べてもらうために入れた同居人のミナミヌマエビ、いつの間にか発生してくるミジンコ類など、鉢の中のその小さな生態系の毎日眺めてその変化を実感することがおもしろい。 正直、私は面倒くさがりの性格なので、眺めるのはいいのだけどできるだけ手入れをしたくないという思いもある。放置と言ったら言葉がよくないので、鉢の中に小さな閉じた生態系と作り上げてあとは自動で循環してもらう、と言い換えたら印象が良いだろう。今は餌を与えているけど水換えは行っていない。水草を多めに入れているせいか水の透明度はそれなりに維持できている。餌を与えないで循環させるためには、容器に対してメダカの数が多いかもしれない。10Lに対して20匹近くはいるのだ。 親メダカは小さい稚魚と餌の区別がつかずに食べてしまうため、稚魚を育てるために親メダカと分離するのが鉄則となっている。閉じた生態系を目標にするのならここも手を加えないでおきたいのだが、その場合は稚魚が隠れて育つためにさらに植物の密度を高める必要がある。水面に浮かび根が多いポテイソウがよい聞くが、その場合は観察しにくくなる問題がある。水槽と違って鉢の場合は真上からしか眺めることができない。 まだ経験も足りないし、観察も重視したいのですぐには無理かもしれないけど、数年のうちには循環環境を実現したい。 関連記事 メダカ増えすぎ問題

読書メーターというSNS

趣味の一つが読書で、現在の趣味の中で占める割合の数値にするとしたら40%くらいになるだろうか。以前に図書館から大量に本を借りてきては貪るように読んだ時期があった。最近は分野の幅を拡げる段階が一段落したと感じていて新規の本を読む割合がだいぶ減った。その代わり自分が大事だと思う本を繰り返し読んでいる。 今の読書の趣味と切り離せないのが 読書メーター というSNS。Facebookはとうの昔にすぐに止めてしまっているけど、この読書メーターは特に無理をせずに丸6年も続いている。フォローする、されるは他の多くのSNSと同じだけど読書メーターは投稿内容は本の感想がメイン。Twitterのように読書と関連のないつぶやきも投稿できるけどそれはサブでしかない。 Facebookは本名で繋がっている人たちの近況が留まることなく目に入ってくる。その近況は一応は本当なのだろうけどおそらく着飾っているところも多々あって、ただ自慢を眺めることになる。それに反応してこちらも負けじという気持ちになってしまったら沼にはまってしまう。自分の悪い面はうまく隠すことができるので、人間関係の悪い面が強調されやすい道具なのだと思う。やったことはないがInstagramも似たところがあるだろう。 読書メーターは本名でない。一部本名の人もいるかもしれないけど。投稿文字数も255字の制限があるしFacebookよりはTwitterに近い。あくまで主役は本のため投稿者の自己主張はできるけど投稿者自身はメインにはならない。Facebookと違って他人と自分を比較するようなことが起こりにくいし、自分をブランディングする必要もない。感想の投稿数は本当に人それぞれなのでそれで競い合うようなことはない、マイペースで進められる。でも一部に人は感想の「ナイス」(FacebookやTwitterでの「いいね」)を集めることが主目的になっている人もいるかもしれない。 フォローしている人の感想に触発されて、自分の読みたい本が増えていくのは好循環といえる。そして感想は書いて投稿する作業によって自分の考えの整理と文章の上達もできると良い事ずくめ。少なくとも私の場合。 同じ本を読んでもそれに対して抱く感想と、その書き方は千差万別だし、その人を構成している本の分野の組み合わせもほぼ同じ人がいない。一部は自分と似たような本の傾向と思ってもその他の

ブログを書く目的(立ち上げ時)

 ブログを書く目的は大きく3つに分けられる。 1.他人に見せるため … 承認欲求 2.自分のため … ライフログ、思考の整理、文章力の向上など 3.収入を得るため 書いた文章をわざわざ公開するのだから1の理由が入らないブログはまずない。2の自分のためだという理由が一番だとしても、もし記事を書いて数ヶ月自分以外の訪問でカウンタが増えなかったら大抵の人は続けることができないだろう。 3はブログによってまったく動機に含まれないものもあるけど、今はブログ主が意図的に広告を入れて、その収入が動機の大きな割合を占めているように見えるブログがとても多い。その程度はほぼ収入が主目的のものから、書きたいことを書いてあわよくば収入をという程度のものまで様々だろうけど。 このブログを始める今、私が考えている理由は1と2が混じったもので、1と2の割合は半々くらいかと感じている。自分で自分のことを理解することと文章力の向上が主な動機なので内容は雑記系にしていきたい。これまでブログはいくつか書いてきて趣味や特定の分野に特化したものばかりだったけど雑記系は初。なんというのだろう、あまり全体的なことを考えずに思いつくまま、行きあたりばったりに書いてみたくなったのが理由になるのだろうか。 特定の分野に特化したものと比べると、雑記系はPVは集まらないかもしれない。それでも、少しでも誰か他人の役に立ったり、心を動かすことができればという思いもやっぱりある。動機の維持のためにある程度のPVは必要なのだけど、PVを増やすために書くというのも手段が目的になってしまい、この辺はなんとも難しい。 今のところ広告を入れる予定がないので3は理由に入っていない。今のWebに氾濫している広告まみれのブログは読みにくくてうんざりしている。少しでも読みやすくできればと思う。