40代半ばの心境 余生の一歩手前

 45歳になった。日本人男性の平均寿命が80歳ということなので、この基準からすると半ば過ぎている。これからは医療技術の発達で人生100歳時代と盛んに言われていて、それからすると半ば一歩手前。間をとってちょうど折り返し地点なのかもしれない。今の心境を一言で表すと「余生の一歩手前」だろうか。あと数年したらいつ死んでも人生にさほど未練はないと思っている。


一人息子は小学校低学年。成人の半分に達していない。人格の土台はだいぶできあがってきていると感じているが、未だに両親にべったりで自立はまだ先。休日はまだまだ親子一緒に遊んでいる。もし今私がいなくなったとしたら経済面はとりあえず置いておいても家庭教育面で正直不安はある。だけど小学校を卒業し中学生になれば親子ででかけたり遊んだりすることもだいぶなくなって友人関係が中心になっているはず。寂しいことであるけどそうでないと困る。その頃になれば私がいなくなったと仮定しても大丈夫かなとは思う。この意味で息子が小学校卒業までが余生の「一歩手前」の部分になる。実際には父親としての教育的、心理的役割の他にも家庭の財布という経済的役割もある。あくまで心情的な仮定の話として。


生き物は配偶者の獲得、子育て、つまり自分の遺伝子を残すことに多大なエネルギーを使う。子を残して力尽きたり自らの亡骸を子の餌にする種もある。この観点からすると、子育ても先が見えた時点でそれから先は明らかに「余生」だと言える。余生というのは必須のことは終えておまけという意味。ちょうど今の心境と重なる。


結婚前後からこれまでが人生で一番読書の密度が高い時期だった。恥ずかしながら学生のときよりもずっと。結婚前は理系の本が中心だったけど子育てを機に教育関係、そして哲学、社会学、心理学、そしてマインドフルネスと広がっていった。今は人生において大事なもの、不易な部分は分かってきたと思っている。読書の学びに終わりはないしむしろ終わりになった気になってはいけない。変化の部分は人によって場合によって違う。その程度も違う。余生でもその調整は続く。


会社生活の方はこの年齢になれば先がほぼ見えている。今後も技術者として目の前のしごとに懸命に取り組むことは変わらない。幸いなことに自分の持っている力を活かすことができている実感はある。65歳まで再雇用制度はあるけど、気分も変えたいし定年(もしくはその前)を機に違う道に進みたいと最近考え始めた。読書もその模索のものが増えてくると思う。余生なので気楽に考えたい。


消費や快楽という意味では、どうしても欲しい「物」はないしやりたいことは一通りやった感がある。昔は例えば海外に色々行ってみたくてしょうがなかったけど、10回もいけばどんなものかは分かった気分にはなる。国、地域によって文化や習慣に違いがありそこに触れるのは新鮮で楽しい。だけど、どこでも人間の営みという点では変わらない。これからは海外、遠くに行かずとも、身近な違いや変化にもっと目を向けてそれを大事にしていきたいと思っている。